BOOK REVIEW : 昭和陸軍全史2 日中戦争

「昭和陸軍全史2 日中戦争」 川田 稔 講談社現代新書 

満州事変から日中戦争へ・・・・永田鉄山、石原莞爾、武藤章

「満州事変と一夕会」

1931年(昭和6年)9月、満州事変が、石原莞爾、板垣征四郎ら関東軍主導で始まった。

陸軍中央においても、永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、東條英機参謀本部編成動員課長ら一夕会メンバーが、「関東軍の活動を有利に展開させる」方向で動いていた。

石原・板垣も一夕会会員だった。

一夕会は永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎を中心に、その2年前に結成された陸軍中央の中堅グループである。

構成員は40名前後、陸軍士官学校14期から25期にわたる、日中戦争期や太平洋戦争時に重要な役割をはたす武藤章、田中新一もその一員だった。

関東軍は、間もなく南満州を占領。

若槻礼次郎民政党内閣総辞職後、政党政治下で主流だった宇垣一成系が陸軍中央から排除され、関東軍はさらに、陸軍中央(一夕会が中核)の承認のもと、ソ連の勢力圏だった北満州を占領した。

その後、関東軍主導で満州国が作られる。

一夕会の中心人物だった永田鉄山は、若槻内閣総辞職後、参謀本部情報部長に就任し、武藤が情報部直属の総合班長となった。

この時期に武藤は、永田から直接強い影響を受ける。

さて、永田が情報部長であったこの時期に、一夕会が事実上分裂。皇道派と統制派の対立が生じる。

以後、武藤は永田を中心とする統制派グループに属することとなる。

統制派には東条英機、富永恭次、真田穣一郎、服部卓四郎ら中堅少壮の中央幕僚が集まっていた。

永田はいったん陸軍中央を離れるが、1934年(昭和9年)3月、陸軍省軍務局長として中央に復帰する。

軍務局長は、陸軍省のトップで、永田は林銑十郎陸相を動かして、皇道派を陸軍中央から追放。

事実上全陸軍をリードする存在となった。

武藤も永田の意向で、翌年8月、陸軍省軍務局の軍事課高級課員(課長補佐)となる。

だが、陸軍内の派閥抗争の激化の中で、1935年(昭和10年)8月12日、永田が陸軍省内で執務中に殺害される。

 

「二・二六事件」

翌年1936年2月、皇道派に繋がる部隊付きの青年将校たちが、やく1500名の武装兵を率いて蜂起した。

二・二六事件である。

彼らは斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監らを殺害。

鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。

だがクーデターは失敗し、彼らにつながる荒木貞夫、真崎甚三郎ら皇道派の長官も陸軍から追放される。

そのような陸軍で強い発言力をもつようになったのが、陸軍省では武藤章(軍事課高級課員)であり、参謀本部では石原莞爾(作戦部長)である。

石原は武藤と同様、永田が中央に呼び寄せていた。

武藤は、二・二六事件後、軍事課員を動かして、皇道派の真崎、荒木のみならず川島義之陸相や林前陸相ら古参将官に辞職を迫り、実現させた。

石原は、統制派メンバーではないが、非皇道派一夕会員で、陸軍内で満州事変の主導者として声望が高く、作戦課長として参謀本部をリードする存在となった。

この武藤・石原を中心とする陸軍の圧力によって、同年5月、広田弘樹内閣下で軍部大臣現役武官制度が復活する。

大臣始めに陸軍任官資格は、それまでの現役武官制から、予備役、後備役にまで拡大されていた。

それが再び現役武官に限定されることとなったのである。

武藤ら陸軍省軍事課の起案によるものだった。

この制度は、陸軍が政治的影響力を行使する有力な手段の一つとなった。

陸軍が陸相を推薦せず、彼らの陸相候補を推薦したり、内閣を倒閣させるため陸相を辞任することが出来た。

帝国憲法では、総理大臣が大臣を選任や辞任させることが出来ず、これが欠点であり軍部が政治に関与することが出来た。

 

盧溝橋事件」

1937年(昭和12年)7月7日、日中戦争の発端となる盧溝橋事件が起こる。

このころ武藤は、陸軍中央に復帰し、参謀本部作戦部長に就いた石原のもとで作戦課長となっていた。

盧溝橋事件の知らせを聞いた石原は、事態不拡大、現地解決の方針を示し、現地の日本軍に拡大防止を指示した。

だが、武藤作戦課長は、石原とは異なる姿勢だった。

武藤ら作戦課は、近辺の中国軍および国民党中央軍の増援に対処するためとして、関東軍二個旅団、内地三個師団などの現地派兵案を作成した。

石原は、次のように反対した。

現在の動員可能師団は十五個師団で、中国方面に振り向けることが出来るのは、十一個師団である。

それでは、中国との「全面戦争は」不可能である。

今、中国と戦争になれば、長期にわたる「持久戦争」とならざるを得ない。

しかも、長期戦となりソ連が侵攻してくれば、対処不能となり、その面からも対中軍事出動は避けるべきと判断していた。

1937年(昭和12年)7月28日、陸軍中央の命令によって現地日本軍が華北で中国軍への総攻撃を開始した。

日中戦争が本格的に始まっていたのである。

この後も石原は戦線不拡大方針を堅持しようとするが、戦線拡大を主張する武藤や田中新一との抗争に敗れ、関東軍に転出する。

 

「管理人のコメント」

陸軍の派閥争いによって有能な軍人たちが予備役に回されたことが陸軍を弱体化させた。

また、陸軍の下克上によって上官の意見を聞かない風潮が生まれ、また、皇道派を追い落としたことは、戦争に向かう道であった。

石原作戦部長の部下である武藤作戦課長は、上官の命令を無視して中国との全面戦争に突入したことが長期戦の泥沼になった。

日本が大東亜戦争に踏み切る原因となった。

永田鉄山は、北支や華中の鉄や石炭の資源が必要であると考えていた。

永田の腹心であった武藤は永田の遺志をついで戦争拡大にのめり込んでしまった。

しかし、永田が存命なら、日米戦争になったか疑問である。

永田は、石原の構想を理解出来た筈であり、日米戦争に発展することは、避けたような気がする。

永田の腹心である東条は、永田の意見に従っただろうし、東条が総理大臣になることもなかっただろう。

永田は、石原、武藤、田中や東條らを上手に使いこなせただろう。

昭和陸軍は惜しい軍人を失った。

永田が存命なら英米との戦争で惨めな敗戦の悲劇は避けられたかもしれない。

 

 

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