BOOK REVIEW :日米戦争を策謀したのは誰だ! 林 千勝

BOOK REVIEW  :日米戦争を策謀したのは誰だ! 林 千勝

ロックフェラー、ルーズベルト、近衛文麿、そしてフーバーは?

大東亜戦争は、何故始まったのか?

日本軍部が中国を侵略して、日本海軍が真珠湾を奇襲したから日米戦争が始まったとされて、軍部が国民を扇動したので軍部が悪いとされてきた。

GHQの洗脳により今でも日本の左翼人がそれを信じている。

この本の著者は、「戦争の側」にロックフェラー、ルーズベルト、近衛文麿そして「平和の側」にフーバーをおいて記述、解説しています。

近衛文麿が戦争を策謀したことは、まさに驚きでした。

 

「ロックフェラー」の世紀

二十世紀は、「石油の世紀」であると同時に「ロックフェラーの世紀」でもありました。

世界の石油産出量は、1934年には、アメリカ61%、ソビエト11%、ルーマニア4%、イラン4%、蘭領東インド3%でした。

アメリカでは、ジョン・デヴィソン・ロックフェラー一世率いるスタンダード石油会社系が早くから石油の9割以上を取り扱い圧倒的なシェアを占めて支配的でした。

1913年に設立された「ロックフェラー財団」は、ニューヨークに本部を置く世界最大級の民間最大級の民間助成財団であり、ロックフェラー二世が初代会長に就任しました。

アメリカに本部を置き国際共産主義の牙城になった太平洋問題調査会(IPR)という民間防衛組織があります。

1925年にホノルル会議を開催し、IPRを正式に設立しました。

ほぼ二年おきに「太平洋会議」と呼ばれる国際会議が欧米やアジアで開催されます。

IPRの最大支部のアメリカIPRは、ジョン・D・ロックフェラー一世や二世そしてロックフェラー財団から多額の拠出を受けながら、その支持の下で政治問題を積極的に取り上げます。

1933年にロックフェラーに近いエドワード・カーターが第2代国際事務局長に就任し1946年までの長期政権を担います。

カーターは、ルーズベルト政権の国際政治に積極的に関与する「干渉主義」の先兵として、大統領や国務省の側面支援を受けます。

ルーズベルト政権は、中国の指導者を鼓舞しながら抗日を支援し、ソビエトを対日抑止力とし、日本に経済政策を加えることを政策目標としました。

1939年8月1日、日本から帰国したカーターは「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」と連絡を取り合いルーズベルト大統領と面会します。

この時期、ルーズベルト政権は日米通商航海条約の廃棄を日本に通告しています。

カーターの主張に沿った展開です。

 

「悪魔の使い ルーズベルト」

フランクリン・デラノ・ルーズベルト(1882~1945)は、民主党出身の第32代大統領(任期1933~1945年、四期連続当選)です。

ニューヨーク州生まれで、父親は鉄道会社副社長で地主でもあり裕福でした。

ルーツは、オランダのユダヤ系です。

フランクリンの母の一族はアヘン戦争の頃から支那でのアヘン貿易を手広く行い財を成しました。

1932年の民主党の大統領候補となり、世界恐慌と戦うとして「ニューデイール」を旗印に共和党現職大統領フーバーを破り第32代大統領に就任したのです。

就任したルーズベルトが特異であったのは、政権に共産主義者が入り込んで来ることに関して為すに任せたことです。

ルーズベルト自身に左翼的メンタリテイーがありました。

彼の政権には多くの社会主義者、共産主義者が入り込んでいました。

これがルーズベルトが戦争への道に歩を進めた大きな要因であるとフーバーは、回顧録において断罪します。

ルーズベルト政権は、イギリスのチャーチルの要請に応じてドイツを挑発しました。

ヒトラーはアメリカとの戦争を避けるべくアメリカ海軍からのいかなる挑発に対しても、我慢に我慢を重ねて忍び難きを忍んでいました。

そこで、ルーズベルトは、日本に最初の一発を撃たせるため、政治的な工作をしました。

在米日本資産の凍結、全面禁輸、近衛文麿首相からの太平洋会議提案の拒否、ハル・ノートの手交などルーズベルトは、対日強硬策を次々と打っていたのでした。

特に 1941年12月26日に日本に突き付けたハル・ノートは中国からの全面撤退等を求めていました。

これは、アメリカ国民に知らされていなかったのです。

大統領にとって最大の問題はあくまで「アメリカに甚大な危険を招くことなく、いかにして日本が最初に発砲するよう導くか」であったのです。

「平和の天使 フーバー」

ハーバアード・クラーク・フーバー(1874~1964)は、共和党出身のアメリカ第31代大統領(任期1929~1933)です。

1928年の大統領選挙で共和党候補として地滑り的な勝利を果たしました。

翌年3月にフーバー政権が発足、アメリカ経済界は歓迎、株価は急騰したのです.

ところが不運なことに1932年10月に大恐慌が起きます。

大恐慌のあおりを受け、フーバーは1932年の大統領選挙で民主党のルーズベルト候補に四十州で敗れるという歴史的な敗北を喫します。

この後ルーズベルト大統領の下で生起する3年8か月にわたる不毛で過酷な日米戦争を、フーバ―は「ルーズベルトというたった一人の狂人が引き起こした」と糾弾することになります。

ソビエト連邦は1922年に正式に成立しましたが、アメリカの歴代大統領は国家承認を見送ってきました。

1933年にルーズベルト政権の発足から8か月でソビエト連邦を国家承認してしまいます。

これによりソビエトの国際社会におけるステータスが上がり、共産主義者のアメリカへの工作の道が一気に開けてしまったのです。

フーバーは次のような言い方でも警鐘をならしました。

「もし我が国が再びヨーロッパの戦いに介入すれば、我が国の民主的政権はそのことがもたらす衝撃に耐えられないだろう。」

1940年夏、フーバーはルーズベルト政権が実施した日本向けの鉄屑と航空燃料の輸出制限を批判しました。

「このような経済制裁は、ガラガラへびを突っつくようなものだ。ほおっておくべきである。これでは、我が国はトラブルをわざわざ作り、自らを巻き込むようなものだ。」

フーバーは回顧録に次のように書いています。

「日本との戦いは無意味である。ルーズベルト政権は戦争したい。場所はどこでも良い、と考えているようだ。」

1941年11月25日、ルーズベルト大統領は会議を招集。

出席したのは、ハル国務長官、スチィムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長です。

会議を記録したスチィムソンの議事録はのちに真珠湾攻撃調査委員会に提出されています。

「問題は、いかにして彼ら(日本)を、最初の一発を撃つ立場に追い込むかである。それによって我々が重大な危険に晒されることがあってはならないが(「裏切られた自由」)。」

 

「藤原(近衛)文麿の敗戦革命」

フーバー回顧録にかなりの頻度で登場する「リベラル派」勢力の筆頭?、日本の首相近衛文麿が要となっての戦争への道です。

近衛首相による「平和への努力」もふりだけでした。

近衛は「野望」の実現を目指していたのです。

近衛文麿とは一体何者か?

フーバーが知らなかった実像をそのルーツに遡って探ります。

世界に数多くある有名な家系の中でも由緒ある歴史を持つ藤原氏は、皇室に次いで稀有な存在と言われます。

近衛家はその藤原氏一族の中で代表格の家です。

藤原氏は日本の頂点に君臨し、その栄華はよく知られています。

藤原氏は厖大な富も手に入れました。

藤原氏の狙いは一党独裁。すり寄る者は生かすがそうでない者は潰す。

そして近世の貧弱の時代を乗り越えて明治維新と共に鮮やかに甦ります。

千数百年にわたって権力に執着し続けて来た藤原氏。

その末裔の筆頭、近衛文麿は氏祖鎌足から46代目にして藤原の血への信仰が篤かったのです。

このような家系に生まれた近衛文麿が、偉大な祖先、藤原道長が絶頂期に詠んだ歌を口ずさみ、「かくありたきものよ」と感慨に浸ったとしても不思議はないでしょう。

「この時代、外国(ソビエトとアメリカ)の勢力を利用しない手はないではないか。しからば、そのために、まずは共産主義者と陸軍を使ってみなければ面白くない」と。

アメリカ軍を使えば、天皇の軍隊、皇軍を粉砕し、「藤原文麿」が天下の覇権を取ることが可能でしょう。

すなわち”昭和の藤原の乱”です。

「英米本位の平和主義を排す」と題する論文を雑誌「日本及び日本人」に発表しました。

第一次近衛内閣の要である書記官長に、共産主義者の風見章を大抜擢しました。

自らの野望の実現のために共産主義者を利用すべく政権中枢に登用したのです。

第二次、第三次近衛内閣でも共産主義者を登用しました。

支那事変を拡大する方向に陸軍を導きました。

そして支那との和平工作を潰しました。

また、自らのアリバイ工作として日米首脳会談をルーズベルトに提案しましたが無視されます。

このように日米戦争が避けられない状態にしてから、政権を東條英機に引き継いだのです。

近衛が関係していた人々は、

当時の共産主義系列では、風見章、尾崎秀美、牛場友彦、白洲次郎、西園寺公一、有沢広巳、蝋山政道など近衛と関わった共産主義者たちです。

また、国際金融資本系列では、松本重治です。

海軍では、米内光政、永野修身、山本五十六です。

終戦の時、風見章は海軍人脈からの手紙を全部燃やしてしまったので手紙の内容や真相がわかりません。

ルーズベルト政権には、共産主義者が多数入り込み、政策に関与していました。

また、近衛首相の周りにも共産主義者が多数おり、その政策に大きな影響を与え、近衛も彼らを利用しました。

日米共に共産主義者の影響を受けて戦争への道を歩んだのです。

フーバーは、近衛首相をリベラルと思い込み、日本の深層にある政治の情報を得ることが出来ずにいました。

もし、近衛首相の情報をフーバーに伝える日本のリベラル派がいたら、フーバーは日米和平のために全力を尽くしたでしょう。

日本の駐米大使館の外務省職員が、有能だったなら、フーバーが時々、ラジオ放送でルーズベルトの政策を非難する放送を聞いたなら、フーバーとの接触を図ったことでしょう。

 

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