「74年前の「伝言」の意味」 From 上島嘉郎
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『上島嘉郎のライズ・アップ・ジャパン』
2019/6/25
「74年前の「伝言」の意味」
From 上島嘉郎
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6月23日は、大東亜戦争末期の
「沖縄戦」で第32軍司令官牛島満中将が
自決した日で、軍としての組織的戦闘が
終わった日です。
沖縄県と県議会は、沖縄戦の犠牲者を偲ぶ
「沖縄全戦没者追悼式」を
糸満市で行いました。
式典には安倍晋三首相も出席し、
「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。
この誓いは令和の時代においても
変わることはない」
と述べました。
安倍首相に対し、「恥知らず!」「帰れ!」
などの野次が相次いだと報じられましたが、
戦没者慰霊という厳粛な式典を妨害する
なんとも恥知らずな行為と
言わざるを得ません。
米軍普天間飛行場の
名護市辺野古への移設問題で、
政府に反対するのは「意見」
として全く構わない。
しかしながら、民主主義を大切にするのなら、
時と場を弁えるのが筋です。
自らを律することのできない者は、
結局民主主義を衆愚政治に
落としてしまうでしょう。
さて、そうした政治的な
喧騒から距離をおいて、
当時のことを少しだけ
振り返っておきましょう。
大本営の報道班員だった山岡荘八が、
戦後の昭和37年から46年の9月まで
足掛け10年かけて書いたのが
『小説太平洋戦争』です
(現在、講談社の山岡荘八歴史文庫
に入っています。全9巻)。
私の愛読書の一つで、
本メルマガにも時々引用してきました。
日露戦争には司馬遼太郎の
『坂の上の雲』がありますが、
大東亜戦争には本書があります。
その価値について、歴史学者が発しがちな
「なんだ、しょせん大衆作家の筆だろう」
というような言には与しません。
山岡さんが本作にどのような思いを以て
取り組んだかはいずれ触れたいと思います。
本稿では、その山岡さんが、
〈惨烈!沖縄戦の終末〉
という章に綴った海軍の
大田実少将の姿を以下に抜粋します。
海軍の連合陸戦隊が、
圧倒的な物量を誇る米軍相手に奮戦しながら、
ついに消息を絶ったのは
昭和20(1945)年6月12日の
午後4時頃でした。
大君の御はたのもとに死してこそ
人と生まれし 甲斐ぞありけり
この辞世の中に流れる心境が、
そして、今日よく知られる
大田少将が海軍次官に宛てた電報
(発信は6月6日の夜半)を、
山岡さんは
としてこう伝えます。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、
沖縄県に敵後略を開始以来、陸海方面とも防衛戦闘に専念し、
看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵すでに出発し、
これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、
「――後世特別のご高配を賜らんことを」
という一句を、山岡さんは、
〈わが死をはっきり予感している人の声
として胸を剔(えぐ)るものがある〉
と語り、
人と生まれし 甲斐ぞありけり〉
と、大田少将の辞世を再掲し、
さらに章を進めます。
それは第32軍の司令官牛島満中将の
運命についてですが、ここでは措きます。
今日の日本人が、74年前の沖縄戦を戦った
当時の日本人、沖縄県民から
汲むべき心情は何か――。
私の年長の友人に沖縄県出身の
映画監督新城卓さんがいます。
「樺太1945年夏 氷雪の門」(昭和49年)
で助監督をつとめ、近年では
「俺は、君のためにこそ死ににいく」(平成19年)
でメガホンをとった方です。
その新城さんが、何度も私に語った言葉を
今回の結びにしたいと思います。
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