ミッドウェー海戦 「運命の5分間の真実」左近充尚敏著 NO.1

ミッドウェー海戦 「運命の5分間の真実」 NO. 1

著者:左近充尚敏(さこんじょう・なおとし)

 

1925年鹿児島生まれ。横須賀中学を経て1943年海軍兵学校【72期】。

重巡「熊野」航海士、駆逐艦「梨」、「初桜」航海長を経て1945年終戦(海軍大尉)。

1952年から海上自衛隊に勤務し1979年退官(海将)。

産経新聞客員論説委員、(財)平和・安全保障研究所評議員、(財)日本国際フォーラム政策委員。著書に「捷号作戦はなぜ失敗したのかーレイテ沖海戦の教訓」、共書に「検証・真珠湾の謎と真実」訳書に「戦艦・大和の運命」ほか。

 

「著書の紹介」

 

ミッドウェー海戦は、太平洋戦争における「天王山」ともいうべき運命的な決戦であったが、同時に第二次大戦の風向きを変える戦いでもあった。

日本海軍の敗北は、そのまま日本の敗戦へとつながったのである。

そしてその勝敗は、戦後の日本に大きな影を落とした。

無敵と謳われた日本海軍は、なぜ完膚なきまでに叩かれたのか。

本書は70年目の記念碑であり、日米双方の戦死した将兵への慰霊でもある。

 

「本書の構成」

第1章:開線までの日米関係

第2章:開戦から珊瑚海開戦まで

第3章~第7章 ミッドウェー海戦の経過

第8章:アメリカの戦史家の評論

第9章:ミッドウェー作戦を考える

 

第9章に著者の考えが要約されている。

 

「暗号書の改正延期」

海軍中央の問題だが海軍は3月末に予定していた暗号書の改正を4月末、さらに5月末に延期、このため作戦計画の大要をアメリカに知られてしまった。

3月末に改正していたら、ミッドウェー海戦の展開は随分と違ったはずだった。

 

「空母の分散」

 

日本海軍は、ミッドウェーとアリューシャンという二兎を追った。

連合艦隊司令部は準備不足だから延期してほしいという機動部隊と攻略部隊の指揮官の要望を却下した。

空母は前月の珊瑚海海戦のために2隻が参加できず、さらに2隻をアリューシャン作戦に割いたため、ミッドウェー作戦には4隻しか当てられなかった。

 

「機動部隊司令部の思い込み」

 

機動部隊司令部は、相手はこう動くからこちらはこう動くという、いわば希望的観測に基づくシナリオにたっていた。

「敵は我が計画を知っていない」「敵が付近に空母中心の有力な兵力を持っているとは思われない」(中略)

 連合艦隊司令部もミッドウェー近くに来るまで同じように考えていた。(以下略)

 

「ミッドウェーの作戦部隊の編成」

 

機動部隊、攻略部隊、主力部隊の3つであるが、攻略部隊と主力部隊は機動部隊の後方を続行した。(以下略)

 

「艦隊決戦主義」

 

日本海軍は開戦劈頭、機動部隊が真珠湾の米戦艦群に大きな打撃を与え、2日後には基地航空部隊が英戦艦2隻を撃沈して、航空機の戦艦に対する優位を証明したが、このことをいち早く認識したのは米海軍だった。

戦艦の任務を空母の護衛と、陸上に対する砲撃に転換したのである。

 日本海軍は、艦隊決戦の夢からなかなか覚めなかったが、兵学校卒表成績が上位の士官が砲術を専攻していわゆる砲術屋になり、重要な地位を占めたことが大きく影響したのではないか。

砲術屋、すなわち大艦巨砲主義、すなわち艦隊決戦主義である。

 山本五十六、嶋田繁太郎、宇垣纏、草鹿龍之介、黒島亀人らが砲術屋であった。

砲術屋に次ぐのが水雷屋で、南雲忠一、小沢冶三郎、栗田健男らである。(以下略)

 

「日米スクリーンの差」

 

機動部隊は空母4隻を戦艦以下17隻が護衛したから空母1隻のスクリーンは4.3隻になる。

一方アメリカは空母1隻ごとに1群を形成していたが、それぞれのスクリーンは7.7隻だった。

 

 

「連合艦隊司令部の大失策」

 

 連合艦隊司令部が通信情報によって、米海軍の動きがきわめて活発になり、空母がミッドウェー方面に出てきたらしいという極めて重要な情報をキャッチしたとき、山本長官は「機動部隊に知らせないでよいか」と参謀達に問うたが{「赤城」もわかっているでしょう。

電波を出して敵に方位測定されることは避けたいと思います}と答えたので知らせないことになった。

内地出航前、機動部隊の草鹿参謀長から「赤城」の通信施設は大和に比べて貧弱だから、大事な情報は送って欲しいという要望があったにもかかわらずだった。

 

 電波ではなく空母「鳳翔」の艦上機、あるいは戦艦、軽巡洋艦の水上偵察機を使う方法もあった筈だが、司令部のだれも言い出した様子はない。

このとき機動部隊司令部が情報をもらっていたら、南雲長官はミッドウェーに対する第2次攻撃を命令することはなく

(従って兵装転換もない)、米空母発見の報が入ったとき、直ちに攻撃隊を発進させたであろう。

 

 機動部隊から米空母発見の報が入ったとき山本長官は「すぐやれと言わんでもよいか」と意見を求めたが,先任参謀は「搭載機の半数は艦隊の攻撃のため待機させるよう、よく言ってありますから」と答えたので、このときも命令は出なかった。

出ていれば南雲長官は直ちに兵装転換の中止と攻撃隊の発進を命じたであろう。

 「搭載機の半数」はミッドウェー攻撃に出した後の搭載機のことである。

 

 幕僚の意見を聞くが決断するのはもとより指揮官である。

山本長官が参謀の意見を容れて重要な情報を機動部隊に知らさず、さらに米空母発見の報告が入ったとき、直ちに攻撃するよう機動部隊に命令しなかったことが敗北を招いた。

山本長官の責任は南雲長官のそれと共にきわめて大きいと言わなければならない。

 

「山口長官の意見具申」

 

 米空母発見の報告が機動部隊に入ったとき、山口多聞第2航空戦隊司令官は、直ちに発進を意見具申した。

正に「兵は拙速を尊ぶ」が求められた瞬間だったが、南雲長官は採らなかった。

(山口司令官は真珠湾攻撃のとき第1撃(第1波、第2波)の攻撃隊が帰投したとき{「蒼龍」「飛龍」発進準備よし}と報告して第2撃を促したが、南雲長官は引き上げを命じた。)

 

「索敵の軽視」

 

 日本海軍は、防御、補給、情報を軽視した。

戦争の末期まで連合艦隊司令部に情報参謀がいなかったこともその一つの表れだが、ミッドウェーでは、敵の情報を入手するための偵察、策敵を疎かにした。

 

6月4日、機動部隊は米艦隊の策敵に低速で艦上機よりも脆弱な水上偵察機をわずか5機と雷撃機(97式艦上攻撃機)2機しか出さなかった。

司令部は攻撃機の機数を出来るだけ多くしたかったのである。

そしてその背後には米空母はいないという思い込みがあった。

 

艦上機の編成からも、アメリカが偵察、策敵を重視していたことがわかる。

日本の空母は戦闘機{(23~30機)は別として}策敵に使える急降下爆撃機(99式艦上爆撃機)

約20機、雷撃機(97式艦上攻撃機)20ないし30機を搭載していた。

 一方、米空母は、戦闘機(27機)は別として急降下爆撃機(SBD)約36機、雷撃機(TBD)15機だったが、急降下爆撃機の半数18機は偵察飛行隊、あとの18機が爆撃飛行隊となっていて、偵察飛行隊の任務は主が偵察、副が爆撃だった。

 

「疑問ある責任と人事」

 

 機動部隊の草鹿参謀長は戦後の手記に、先任参謀がきて「参謀一同の意見として、この際長官に善処を勧めていただきたい。参謀一同も潔く自決する」と言ってきたので、参謀を集め「自決するようなことは私としては大反対である。

南雲長官には私から軽挙妄動はなきよう申し上げる。

なお私としては将来とも現職のままとしてもらい、さらに一戦交えることを許されるならば本懐これに過ぎるものは無い、と言って翻意を求めたのである」と書いている。

 

 連合艦隊の宇垣参謀長は、草鹿参謀長が6月10日、直接山本長官に訴えた様子を

「大失態を演じおめおめと生き残れる身に非ざるも、復讐できるよう取り計らって頂きたし」、長官簡単に「承知した」と力強く答えられる」と日誌に書いている。

 

 繰り返すが、空母4隻を失った連合艦隊司令長官、機動部隊長官の責任は大きい。

2隻を失った第2航空戦隊司令官は旗艦と運命を共にした。

4隻の空母のうち3隻の艦長は戦死したが「赤城」の艦長は生き残り、予備役編入、即日応召の処分を受けた。

 米海軍であれば機動部隊長官は更迭され、第2航空戦隊司令官は自ら命を絶つことはせず、人事当局は「赤城」艦長の処分は全く考えなかったであろう。

 

 

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