ミッドウェー海戦 「運命の5分間の真実」左近充尚敏著 NO.2

ミッドウェー海戦 「運命の5分間の真実」左近充尚敏著 NO.2

「運命の5分間説」

広く信じられてきた「運命の5分間」説が正しいか検証する。

空母の乗員は7時15分に南雲長官の命を受け、ミッドウェー攻撃のために雷撃機の魚雷を爆弾に替え始めたが、米艦隊発見の報告を得た長官は8時15分、爆弾を魚雷に戻すよう命じた。

現場にいた上級士官は戦後次のように書いている。

 

  • 草鹿参謀長

 第二次攻撃隊の準備は完成された・・・・・。「発艦始め」と同時に戦闘機の第1機が飛び去った。

あと5分もすれば全機発進する。その時であった・・・・・。

雲の隙間から敵急降下爆撃機が・・・・・・。

 

  • 淵田「赤城」飛行隊長

かくて作業ははかどって、制空隊の戦闘機と第二次攻撃隊の雷撃機は飛行甲板に揚げられた。

いよいよ敵空母攻撃に発進するところである。「赤城」は風に立った。

全速力である。「発艦始め」と同時に戦闘機の第1機が発進した。

あと5分間で全機が発進を終了する。

ここがミッドウェー海戦運命の5分間と呼ばれるところである。

このとき敵急降下爆撃隊の来襲があった。

 

10時25分には機動部隊の攻撃隊が発艦を始めていたというのであるから、米機の攻撃があと5分間遅かったら、3空母が大破することはなく、一方米空母は我が攻撃隊によってかなりの被害を蒙ったことになったであろう。

 これが「運命の5分間」説であり、ミッドウェー海戦に関心を持つ人たちはこの説を信じ、わずか5分の違いで負けたのか、実に惜しかったと残念に思って来たのである。

 だが次の2つの文献が示すように事実ではなかった。攻撃隊の発進準備はまだ出来ておらず発進した零戦1機は攻撃隊ではなく上空直衛機だったのである。

 

  • ダラス・イゾム著「Midway Inquest ( Indiana University Press, 2007)」

   私は3度訪日してミッドウェーの戦いに参加した20数名から取材した。

「赤城」「加賀」 の飛行甲板に雷撃機は上がっていたのか?

格納庫にあった雷撃機は魚雷を積んでいたのか?

取材したパイロットの多くは、格納庫の自分の機のそばにいたか、あるいは飛行甲板で機が上がってくるのを待っていたと述べた。

つまり、攻撃された10時25分ころ、

 雷撃機はまだ飛行甲板に上がっていなかったのである。

 

 一方、整備員たちの多くは、食事したり、休息したり、あるいは飛行甲板で新鮮な空気を吸っていたと回想した。

以上から雷撃機の兵装の再転換は終わっていたが、まだ飛行甲板に上がっていなかったことがはっきりと分かった

 

  • 戦史業書

  被弾当時各空母は、まだ攻撃準備中で、1航艦(注=第一航空戦隊)の兵装復旧も完成していなかった・・・・・。

これより先、10時22分、南雲長官は上空警戒機を増強するため零戦を準備出来次第発艦するよう命じた。

この命令により発進できたのは、被弾した3空母のうち赤城1機だけであった。

この1機は赤城が被弾する直前であった。

 

「敗北の隠蔽」

 

日本海軍は大型艦が沈むと、その事実の秘密保持に異常なまでの神経を使った。

新聞ラジオでの報道などは論外であり、沈没艦の乗員はしばらく隔離したのである。

ミッドウェーで沈没した4空母の乗員は呉基地に近い三子島に隔離された(1944年11月に空母「信濃」が撃沈されたときの乗員もこの島に隔離された)。

 

こうした日本海軍のやりかたについてエドウィン・ホイトは「Japan’s War」で次のように批判している。

 連合艦隊としては、真実が広く国民の間で知れ渡ることを防がねばならなかった。

「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「三隈」の乗員をどうするか。

米海軍であったら、全員に休暇を与え故郷に帰してやってから、新造艦の乗員にするか、各種学校の教官、教員にしたであろう。

 

 「二つの敗因」

 

 ミッドウェーの敗因を二つだけ挙げるとすれば、山本長官が戦いの数日前に得た米艦隊の動きについての情報を機動部隊に知らせなかったこと、

南雲長官が艦上機の半数は対艦攻撃に備えよという山本長官の指示に違反したこと、この二つであろう。

 

「ミッドウェー海戦の読後感想」

 

1.著者は、日本の戦史業書、アメリカの公文書や文献、資料を調べて詳細に海戦の事実を書いている。

場所、時間、空母や戦闘機の数や行動など時間の経過に従って日本側、アメリカ側の刻々の様子を事実に沿って書いている。

その苦労は大変だったろうと推察する。

海軍兵学校72期で最後の方であるから、日本海軍の愛惜と海戦史調査への執念を感じる。

 

 2.運命の5分間を数十年も信じてきたのに嘘をつかれていたことに唖然とした。

 

 3.策敵の軽視

 

 日本海海戦の時は、飛行機などなかったから、漁船を探索船に借り上げてロシア海軍がどちらに向かうか必死に情報を集めていた。

それなのに、空母に戦闘機はたくさんあるのに出し惜しみ、先に見つかった方が負ける可能性が多いのにもかかわらず低速な水上偵察機5機と雷撃機2機しか出さなかった。

 

そのケチったせいで戦闘機、爆撃機が全滅することになった。

そして何も知らずその後起こる地獄も知らず、休息したり食事をしたり新鮮な空気を吸ったりしていた精鋭なる将兵たちは一瞬の内に命を失ったのである。

 

 もともと、司令官や参謀たちに緊張感が足りなかったから、全将兵の緊張感が弛緩していた。

例えば巡洋艦「利根」のカタパルトが故障して水上偵察機の発進が遅れてその向かう方角に敵空母がいたと吉田俊雄氏の著書で読んだけれど、普通ならすぐ連絡して空母から零戦を出せばいいのである。

 

挙句の果てにその偵察機は、あり得ないことに雲の上を飛んだらしい。

雲の下に敵機動部隊がいたのである。緊張感を将兵までなくしていたのである。

 

 連合艦隊参謀から、敵空母がいない筈だと言われていても現場の指揮官は慎重にまず八方向に第一弾策敵を実施しなければならない。

長官や参謀長が一言命令すればすむ話である。

そして第2次攻撃隊が必要だと無電で報告があったとしても急ぐ必要はなく何故必要なのかその攻撃隊が帰ってからミッドウェー島の状況を質せばいい。

 

そうすれば島の敵の備えが尋常でないことがわかったに違いない。

そういう異変を感じるような人物だったら大敗北を喫することはなかったであろう。

日本海軍が戦いの主導権を握っていた時期だったから、この作戦はあわてず1ヵ月後でも良かったのである。

 

4.機動部隊司令部

 

何故、魚雷を爆弾に積み替えたのか。

山口第2戦隊司令官から「直ちに攻撃の要有りと認む」という具申があったのに何故、握り潰したのか?

 

機動部隊司令部では、南雲長官が指揮の判断を源田参謀に任せていた。

彼が指揮の是非を長官に伺い命令を実行していた。

源田機動部隊と揶揄されていた。

 

 つまり、この長官と参謀長のコンビは冷静沈着な決断が出来ない者たちだったのである。

このコンビにまた任せても勇気や戦意などが感じられない。

理屈ではなくすぐ反応して猛然と突撃する勇気があればいいだけである。

学校秀才ばかりだから教科書に書いてないことが起きると対処出来ない。

 

真珠湾攻撃でも真珠湾に停泊していた古い戦艦を攻撃しただけでさっさと帰って来たコンビであるからそこで更迭すべきであった。

 

5.連合艦隊司令部の問題

 

連合艦隊も黒島艦隊と揶揄されていたそうである。

 山本長官は、司令官でありながら何故、部下に相談してそのままにしてしまったのか。

何故、重要な場面で自ら決断して一言相談ではなく命令しなかったのであろうか。

 

不思議である。

勝負事で負けることがなかったということは決断力があったからであるが何故、その海戦の重要な勝負の決断が出来なかったのか不思議でならない。

 

山本長官は不思議な人物である。

山本長官からは、猛将という感じが伝わって来ないのである。

あの方は、非凡であるけれど、長く海外に駐在していたので戦いの現場より海軍大臣に向いていたと思う。

 

山本長官は殆ど、ヨーロッパやアメリカに派遣されていた。

アメリカ駐在の時にアメリカの航空機の発展に驚いて航空を研究して日本海軍航空を飛躍させた功績は大きい。

 

また海軍次官として戦争は出来ませんと答えられた唯一の人だった。

むしろ嶋田海軍大臣が連合艦隊司令長官になっていれば違う戦況になったであろう。

 

 及川古志郎海軍大臣は、決断力や覇気がなく戦争反対を言い出すことがなかった。

永井修身軍令部総長は、病気勝ちでもうボケていたようだ。

このような時、米内光政前海軍大臣は山本を海軍大臣に押そうとしたがボツになった。

 

吉田俊雄氏の著書や他の兵学校卒業生の著書で読んだことであるが、 山本長官は、勝負度胸がよく怖さを知らない人だったらしい。

だからかもしれないが、作戦の大部分を仙人参謀と言われた黒島亀人先任参謀に任せ切りであり異論を挟まなかった。

 

山本は人の好き嫌いがはっきりしていたようである。

宇垣参謀長の提案があったとき、海上勤務期間が足りないと言って半年間後にようやく司令部に受け入れた。

 

しかし、黒島先任参謀が山本長官から重用されており、そこで宇垣参謀長が遠慮して本来参謀を統率すべき任務を怠っていた。

そして山本長官は、将棋が好きで強くて互角に渡り合える参謀は、渡辺参謀しかおらずいつも渡辺参謀が相手をしていてその途中で山本長官が何か一言つぶやくとそれを先任参謀に伝え彼が瞑想にふけって何やら作戦を立てると言う具合で異常な司令部であったらしい。

 

あのころの男は寡黙であり東郷司令官のように普段は寡黙で重要な時に決断するタイプが多かった、饒舌は男の品位を下げると言われていた。

 

しかし、日本海海戦の秋山参謀のように作戦の非凡の才能と普段の研究をしていた優秀な参謀がいたから日本海海戦に勝利できたのである。

 

だが、この時の連合艦隊司令部は、司令官と参謀が集まって議論して決めると言うことがなかったように思われる。

指令部のチームワークが取れていなかったように思われる。

 やはり、山本長官は海戦の現場の指揮官としては不適任であった。  

 

それから、連合艦隊と機動部隊の協力関係があまりよくなかったに違いない。

普通なら連合艦隊司令部が無線が探知されることより機動部隊のことを心配して情報を連絡すると思うのだが。

 

 色々な情報や兆候があってミッドウェー戦場に行くまで修正していれば敗北とならずにすんでいたのに「なーに、大丈夫だ」という一言でかたづけられた。

 

宇垣参謀長は、旗艦「赤城」の艦橋が低いので電波が届きにくいので何かあったらよろしく頼むと草鹿参謀長から頼まれたのに大和で敵の情報を得たとき、何も山本長官に意見を具申せず、黒島参謀が大丈夫ですと言ったことに何も文句を言わなかった。

 

 黒島参謀のように自室に篭って一人でタバコを吹かして仙人のように作戦を立てる人物を何故、山本長官は重用したのか。

一つには、海軍士官の教育が金太郎飴のように同じ考えをして独創的な思考をしない人物ばかりなことを嫌っていて仙人参謀と言われた黒島のような人物を買っていたようである。

 

しかし、次の日、飛行機で南洋の島へ飛ぼうとする日に「変えようと思っている」と語ったそうである。

しかし、山本が戦死したことによって実現しなかったが余にも遅いと言わねばならない。

 

6.海軍の人事 

このように見て来ると日本海軍の人事異動は問題であった。

真珠湾攻撃の後、情実をはさまず反省を真剣に行っていれば南雲長官や草鹿参謀長の更迭となって小沢長官や山口長官などに交代していてミッドウェーの大敗北はあり得なかったであろう。

 卒業年度や学校の成績などに拘らず適材適所であれば各戦場で勝つことも出来た。

 

やはり、海軍内部の身内可愛さであろうか。

それとも情に厚い日本民族の特性であろうか。

ミッドウェ-の大敗北の後に同じように山本長官や黒島先任参謀や宇垣参謀長などの連合艦隊司令部は更迭が当然だった。

人事の硬直化が敗戦を招いたと言える。

海軍内の同情で人事をうやむやにして大敗北までも秘密にしたことは、最悪であった。

 

7.海軍の教育

 全国の中学の秀才を集めた海軍兵学校であったが純粋培養で海軍士官としての教育を徹底的に施した。

ただ、誰でも同じように考え行動するように教育し、異端を認めなかった。

 

海軍大学では、学生も教官も模範的な問題のない温和で忠実な人物を求めた。

教育内容も、戦術教育を優先して戦略とか政治、歴史、経済、科学、軍事学などの教養科目を教えなかったため戦術のような狭い考えしか持たない士官を養成したのが失敗だった。

 

 

 このような海軍の不甲斐ない負け戦によって70年後もの日本で国家滅亡の危機が迫っていて善良な国民は心を砕いている。

あの敗戦がこれほどまで我が国と我が国民に執拗に迫って来るとはこの10年前までは思いもしなかったのである。

 

 あの当時の軍人や国民は国家のため外敵と戦った。

しかし、今は国内の裏切り者と戦わねばならない。

その売国奴たちが総理大臣や国務大臣となっているのだ

誰が想像したであろうか。しかし、このままで黙って見ているわけにはいかない。

 

ミッドウェーでそして南海で戦って無念の死を遂げた将兵の英霊たちのためにも。

 

 それにしても山本長官が思いついた真珠湾攻撃といいミッドウェー海戦といい国を担保にした大博打のため多くの兵士が犠牲になり日本の敗北に繋がったのは何としても無念である。

そのつけを未だに払えない状態が続いているのは残念でならない。

 

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