「凡将」山本五十六 : 生出 寿(おいで ひさし)著 NO.2
「凡将」山本五十六 生出 寿(おいで ひさし)著 NO.2
「目も眩むような凶報」
(中略)
ところで、ミッドウエー海戦であれほどの大損害を受けながら、その責任者たちに対して責任を問おうとせず、また自ら責任を明らかにして裁きを受けようとせず、うやむやのうちに不明瞭な人事処置で済ますと言うのは、どう考えてもおかしいとしか思われない。
山口、加来、友永ほかの将兵の身の処し方と比較すると、草鹿一人に限らず、山本以下の連合艦隊司令部員の身の処し方は、一見もっともらしいが、要領のいい官僚の処世を思わせる。
南雲、草鹿、源田らは、山本の広量というか温情というか私情というか、そういうものによって、米国海軍ならばクビ間違いなしと思われるところを助かって、うまく横滑りできたような感じである。
ところがそういうことがある一方、大火災の艦に最後まで残り、艦とともに沈もうとしていたところを、飛行長の増田正悟中佐につよく諌められて生還した赤城艦長青木泰二郎大佐は、嶋田海軍大臣に責任を問われて予備役に追われた。
また、沈んだ4隻の空母に乗っていた多数の罪のない下級士官や下士官兵たちは、ミッドウエー大敗の口封じのために南海の遠い島々や僻地の最前線にとばされた。
まるで、責任がある者に罪がなく責任がない者に罪があるような処置の仕方ではないかと思われるのである。
山本がなぜ南雲、草鹿、大石、源田らの責任を厳しく追及しなかったかということについては、いろいろの説がある。
しかし、一番うなずけるのは、彼らの責任を追及していけば、勢い山本自身の責任にも至るからだということである。
そのために山本は、部下たちの責任も追及しない代わりに、自分も逆に問われないと言う道を選んだように思われる。
山本は、ミッドウエー攻略中止命令を出した後、幕僚たちにたいして、
「ぜんぶ僕の責任だ。南雲部隊の悪口をいってはいかんぞ」と言って長官室に去り、それから数日間、引きこもって外に出てこなかったといわれている。
この言葉は、良いように取れば、総帥たる山本が罪を一身に負うということであろう。
しかし、悪いように取れば、みんなの口を封じ、臭いものに蓋をするということになる。
あるいは、どちらでもあったのかもしれない。
ただ、いずれにしても山本は理非を明らかにせず、いわゆる政治的処置というものでこの急場を切り抜けようとしたのではないか。
山本は、ミッドウエーの無様な負け戦で表面には見せないが、失望落胆で真っ暗な気持ちになっていたようである。
(中略)
もし、ミッドウエー海戦の真相が公表されたならば、正規の英雄は、たちまち世紀の阿呆に転落したに違いない。
そして敗軍の将という惨めな姿で退陣を余儀なくされたかもしれない。
しかし、そうなると、栄光の帝国海軍の威信も当然ガタ落ちとなり、国民に愛想をつかされたに違いない。
それではおしまいである。
というような事情のために、永野軍令部長も嶋田海軍大臣も、真相を糊塗することにしたものと思われる。
あれほど無残な負け方をしたミッドウエー海戦だが、今日に至っても直接山本を酷評する人は少ない。
憎めない人柄や、哀愁を感じさせる悲劇的な最期といったものが、そうさせるのであろうか。
しかし、ここでは、山本への忌憚のない酷評の例を一つ紹介しておきたい。
前にも触れたが、東條陸相の軍務局長に、佐藤賢了少将という心臓の強い男がいた。
彼の「大東亜戦争回顧録」の一節には、こう書かれている。
しかし、この作戦(ミッドウエー)は、実施部隊の実情を顧慮しない無理な作戦であった。
作戦要領の研究準備の時も与えず、長駆インド洋から帰ったばかりの機動部隊に、汗もふかせずに敵の本拠に近いミッドウエーに、しかも奇襲的作戦を行おうとするのは、無理を超えて乱暴というよりほかにない。
敵の本拠ハワイの目と鼻のさき、ミッドウエー攻略は、準備を万全に整えた組織的強襲でなければならぬ。
進発してからでも敵情は全くわからぬまま、メクラ攻撃に近い攻撃をかけたのである。
(中略)
真珠湾攻撃作戦を考案し、訓練し、そしてこれを実行した山本五十六提督は古今の名将である。
しかし、ミッドウエーで敗北した山本五十六提督は凡将中の最凡将といっても過言ではない。
(中略)
特にミッドウエーは敗戦の大罪人たるを免れない。
軍人が戦場で敗北したのでは、他になにものをもってしても償う事はできない。
「負ける戦争をする馬鹿があるか」と叫んだことを世間では高く評価しているようだが、彼が連合艦隊司令長官であるが故に、私はかく酷評するものである。
ミッドウエーの敗戦により精鋭の空母4隻を失ったわが海軍は、戦艦や巡洋艦が健在していても、もはや決戦力がなくなったのである。
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