「凡将」山本五十六 : 生出 寿(おいで ひさし)著 NO.1

「凡将」山本五十六 NO.1

 

著者:生出 寿(おいで ひさし)

 

大正15年3月13日、栃木県生まれ。海軍兵学校第74期。海軍潜水学校普通科学生。

海軍少尉。東京大学文学部仏文科卒業。アサヒ芸能新聞編集部。アサヒ芸能出版(現徳間書店)常務取締役。

を経て現在ことば社社長。

昭和53年に文化放送「終わりなき海軍」を松浦敬紀氏と協同編集。

昭和55年「日本海軍風流譚」一~四(ことば社)編集。

昭和58年11月「海軍ひょうきん物語」(文園社)編著。

昭和58年10月「凡将」山本五十六、第一刷、徳間書店。

 

「情に流れた長官人事」

 

海軍次官の山本五十六中将が聯合艦隊指令長官に親補されたのは、昭和14年8月30日である。

自分の名と同じ数えの56歳であった。

 

山本をその長官にしたのは海軍大臣米内光政大将であり、「海軍大臣がよかったかもしれぬが、そうすると陸軍の回し者か右翼に暗殺される恐れがあった」ということであった。

 

山本は一旦長官就任を辞退した。

米内が指名した後任海相吉田善吾中将の次官にとどまり、日独伊三国同盟の阻止と、日米戦阻止に努力したいといった。

米内は、「ずいぶん君も苦労した。少し太平洋の新鮮な空気を吸ってくるがいい。なにしろここは空気が悪いからね」といって山本を承知させたという。

  (中略)

しかし、この人事を考えて見れば情に流れて甘かった。

山本の連合艦隊司令長官就任は、時局に応じた適材適所でなくて、あるかないかわからない暗殺からの逃避ということで、すっきりしたものではなかった。

 

国が平穏な時でも、軍隊は急変に即応できる体制を整えていなくてはならない。

その中でも海軍について言えば、海軍大臣、軍令部総長、聯合艦隊司令長官は、いかなる場合にも最適任者である必要がある。

  (中略)

また山本は、軍政にかけては第一級のプロであったが作戦にかけては岡目八目のアマチュアに過ぎず、とうてい第一級のプロとはいえなかった。

まして対米戦についてはテンから自信がなく、開戦となるとどんな戦をするかわからない人物であった。

 

 それと比べて、疑問の余地がなく明快だったのが、日露戦争開戦4ヶ月前の常備艦隊司令長官更迭人事であった。

 

海軍大臣が山本権兵衛中将、常備艦隊(のちの連合艦隊)司令長官が日高壮之丞中将で

当時東郷平八郎は、田舎の舞鶴鎮守府司令官という、退役一歩手前のかすんだ老人であった。

 

 明治36年10月17日、東郷は緊急の招きによって、高輪の私邸に山本権兵衛を訪ねた。

権兵衛52歳、東郷57歳のときである。

 

 権兵衛は虎のような眼を光らせて東郷にいった。

「ほかでもない。君に日高の後を引き受けてもらいたいが、どうだろう」

東郷は、しばしの沈黙の後にこたえた。

「よろしい、引き受けよう」

権兵衛はまたいった。

「ただし、万事中央(海軍省・海軍軍令部)の指図どおりに動いてもらわねば困る。この点はどうか」

「それでよろしい。ただし、参謀だけは自分に選ばせてもらいたい。

それから開戦までは中央の支持に従うが、戦場に於いては、大方針は別として、その他の駆け引き一切は任せてもらいたい。」

権兵衛はうなずいた。

  (中略)

 

「職を賭せない二つの弱み」

 

昭和15年7月、天皇ご指名の米内内閣も陸軍の倒閣運動の前には簡単につぶされた。

後には、陸海軍をうまくあしらって無難にやろうという、第二次近衛内閣が誕生した。

 

しかし、近衛には信念がなく、目的のためには手段を選ばない陸軍に取っては与し易い人物であった。

 

陸軍は海軍の米内・山本・井上(成美少将・兵学校第37期、のちに最後の海軍大将)らが徹頭徹尾反対し抜いた日独伊三国同盟の締結をふたたび近衛にせまった。

 

 三国同盟が締結されれば、英仏を助けるアメリカと戦わねばならなくなるというのが、日本海軍上層部の一致した見解であった。

  (中略)

 そのころの海軍大臣は、連合艦隊司令長官を山本と入れ替わった吉田善吾中将であった。

山本と兵学校同期の第32期で、政治的手腕はない真面目な人物であった。

それだけに海千山千の陸軍や松岡相手に、その上を行く駆け引きなどは出来なかった。

 

吉田は三国同盟阻止のために必死の努力をしたが、陸軍と松岡の手を変え品を変えての攻めに参り、自殺まで考えるひどいノイローゼとなった。

  (中略)

9月3日、疲れ果てた吉田は築地の海軍病院に入院し、翌4日、海軍大臣を辞職した。

 

9月5日、及川古志郎大将が海軍大臣となり、及川によって豊田貞次郎中将が次官となった。

しかし、このコンビは陸軍と松岡に軽くひねられて、海軍が反対し抜いてきた日独伊三国同盟にあっさり賛成してしまった。

  (中略)

この9月に、山本は近衛に招かれて、萩窪萩外荘の自邸に近衛を訪ね、近衛に日米戦の見通しについて聞かれた。

「それは、ぜひやれと言われれば、初め半年や一年はずいぶん暴れてご覧に入れます。

しかし、2年、3年となっては、まったく確信はもてません。

三国同盟が出来たのは致し方がないが、かくなった上は日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います。」

と山本はこたえた。

  (中略)

かって山本は海軍次官時代に三国同盟反対・日米戦阻止にあらゆる力を尽くした。

ところがそのために、陸軍や右翼から「腰抜け」「国賊」と罵られ命を狙われた。

 

その山本が、聯合艦隊司令長官として、

「対米戦争はやれません。やれば必ず負けます。それで聯合艦隊司令長官の資格がないと言われるなら、私は辞めます。」

と言ったら海軍部内は勿論、世論はどうなるであろうか。

郷土長岡の人々はどういう思いでみるであろうか。

山本はそういうことには耐え切れなかったのではないかという気がする。

   (中略)

「やれといわれれば、初め半年や一年はずいぶん暴れてご覧にいれます」と、いささかかっこいいところを見せたがる人物だったと思われる。

    (中略)

山本が連合艦隊指令長官の職を賭してまで三国同盟・日米戦阻止をしなかったのは、

このような部下や郷土の人々に対するメンツのためであったと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

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