ルーズベルト秘録―極刑判決:法的手続きを装う復讐だった
ルーズベルト秘録―極刑判決:法的手続きを装う復讐だった
米太平洋方面軍司令官、マッカーサーはマニラ帰還を果たして12日後の1945年(昭和20年)2月17日、マラカニアン宮殿(大統領府)で戦勝スピーチをするうち、感極まって泣き出している。
フイリピン撤退の際、「アイ・シャル・リターン(必ず戻ってくる)」と言い切った米国きっての勇将も〔様々な思いが一度に浮かび、肉体的にも精神的にも緊張の糸が切れてしまった〕のである。
だが、「将軍の涙」という感動的な場面で記憶されたこの演説は実は、真珠湾攻撃に続く日本軍の猛攻で屈辱の撤退を余儀なくされたマッカーサーがいかに復讐に捉われていたかを示す結果にもなった。
「私がこの美しい街から撤退してすでに3年が過ぎようとしている。
その間の苦闘と犠牲、さらに辛さは筆舌に尽くしがたい。
撤退の際、戦争のルールに従ってマニラを日本軍に無抵抗で明け渡した。
無用な破壊から守るためだった。
だが、敵はそうしなかった。
その絶望的な反抗でマニラは不必要な破壊にさらされたのである。
敵は自らの運命でそれをあがなわなければならない。」(マッカーサー著「回想」)。
マッカーサーが勝利記念スピーチにわざわざマニラ破壊への怒りと“罪のあがない”を含めたのにはわけがあった。
マッカーサーの父、アーサーはフイリピン軍政総督を務めたことがあり、マッカーサーはそれを継ぐように1935年、軍司令官に就任している。
しかも最愛の母をこの地で亡くし、2番目の妻、ジーンとの間に長男が生まれたのもマニラだった。
米第37師団がようやくマニラに迫り、いよいよ市中に突入することになった際、マッカーサー自ら先頭を切ったのはそうした過去への思い入れが強かったからだ。
マッカーサーは護衛兵を従えてわき目も振らずにかって暮らしたマニラホテル最上階のペントハウスへと突き進んでいる。(中略)
この激しい怒りが果たして”罪のあがない“を求める復讐心を生んだのかどうか。
少なくともフイリピン方面軍司令官、山下奉文らに対する極刑判決はそうした怒りを十分に感じさせるものとなった。
東京のマッカーサーを訪ね、インタビューの過程で「マニラの戦争犯罪裁判についてどうお考えですか」と水を向けている。
(中略)
米海軍作戦史を編纂下海軍大佐、ロジャー・ピーノウは、山下の弁護人だった陸軍大尉、フランク・リールが書いた「山下将軍の裁判」を読みふけり、今度は怒りで眠れない夜を過ごしている。
リールによれば、45年10月29日に始った裁判は、わずか35日で審議を終え、その間に4千ページに及ぶ陳述書と423点もの証拠物件が提示されたにもかかわらず、判決は46時間後に下された。
まるで、結果が決まっていたかのような判決は、明らかに意図的だった。
判決日の45年12月8日は、日本の真珠湾攻撃4周年にピタリと照準を合わせており、山下は其の日の午後2時ちょうどに死刑を言い渡されたのである。
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