ルーズベルト秘録―制裁発動「9年半経て最も厳しい形で」

ルーズベルト秘録―制裁発動「9年半経て最も厳しい形で」

 

 ドイツ軍のソ連侵攻による国際情勢の劇的な変化は1941年7月、太平洋アジア方面にも徐々にだが、波及していった。

 

仏領インドシナ(現ベトナムなど)北部に進駐していた日本軍は南部へと動く気配を見せ、米国が態度を硬化させつつあった。

 

 其の少し前の6月下旬、ルーズベルトは『米国の立場から見れば独ソ戦を機にすべての問題が一挙に噴出するだろうし、戦争がいつ起こるかわからない状況となった』と駐米英国大使のハリフアックス卿に語っている。

まさに其の通りの展開になってきたのである。

(ジョセフ・ラッシュ著「ルーズベルトとチャーチル」)。

 

7月中旬、ルーズベルトはホワイトハウスの執務室で日本の外交電文を読みながら怒りで顔を紅潮させていた。

中国・広東の日本総領事が7月14日、東京宛に打電したものを傍受した電文で、当時米国は「マジック情報」として解読に成功していた。

 

 翻訳された内容はおおむね以下の通りだった。

 

『仏印占領後の計画はオランダ領インド(現インドネシア)に対する最後通告の発送である。

作戦の主力は海軍になるが、陸軍もシンガポール占領に一個師団、蘭印占領には2個師団を投入する。

その際、各基地の航空機と潜水艦部隊を持って英米の軍事力を粉砕する・・・・・・・・」

 

 米海軍作戦部はこの電文について『単なる希望的観測であって直接、軍事行動を起こす指令ではない』と判断したが、日本がインドシナ半島全域に野心を持ち,英国領マレー、シンガポールのほか、

米植民地のフイリピンや米軍が駐留する東インド諸島にも手を広げる機会をうかがっているとの疑念は強まった。

 

 (マジックは『パープル(紫)』と呼ばれる暗号機で作成される日本の外交電文のことで、米国は暗号機を複製し、解読に成功していた)。

 

 7月はじめには、米国内の対日経済制裁論がかってないほど強くなっていた。

英国を支援してドイツを打倒し、その後に日本を粉砕するという「ドッグプラン」を打ち出し、日本への経済制裁に慎重だったルーズベルトも7月後半になると経済制裁に向けて大きく舵を切る。

 

 日本の駐米大使、野村吉三郎は7月24日、ホワイトハウスの執務室に招かれた。

何事かと恐縮する野村に対し、ルーズベルトは一つ一つ言葉を選びながら、残酷なほどの率直さで警告を与えている。

 

「これまで石油禁輸をしなかったのは、貴国が蘭印に進出する口実を与えないためだった。

だが、米国では東部を中心に石油不足が深刻化しており、何故日本に石油を輸出し続けるのか首をかしげる国民が増えている。

日本が蘭印に進出することになれば、英国はオランダを支援して反発するだろうし、日本は米国を敵に回す結果になるだろう」

 

石油禁輸を実施すれば、日本は油田のある欄印に進出することが予想されていた。

ルーズベルトは「もしそうなれば日本は米国との対決を覚悟しなければならない」と釘を刺したのである。(チャールズ・タンシル著『裏口から戦争へ』)。

 

資産凍結は実際には、26日に発表され、日本軍が仏領インドシナ南部に進駐した8月1日には、米国は石油の前面禁輸にも踏み切っている。

 

1931年の満州事変で、米国は『ステイムソン・ドクトリン』で制裁をにおわせながらも結局、具体的行動に踏み出さなかったのは、戦争誘発を心配したからだった。

 

ルーズベルトはそれから9年半あまりを経て最も厳しい形で制裁を発動した。

独ソ戦以降の国際情勢の激変が、米国に戦争をも辞さずと言う変化を促したことは間違いないだろう。

 

米国は一歩ずつ日本との対決コースをたどることになった。

陸軍長官のステイムソンは、英国から飛び立つ大型爆撃機B17がドイツの拠点爆撃に成功したことに着目し、フイリピンにも大量に配備することを決定した。

 

 フイリピンには7月に現役復帰した強気の将軍、ダグラス・マッカーサーがいた。

マッカーサーとステイムソンは、爆撃機によって制海権を確保し、東シナ海と南シナ海を事実上、封鎖することを考えていた。

 

 ステイムソンはフイリピンの爆撃機増強を命じた後の10月6日、国務長官のハルに「とにかく3ヶ月頑張ってくれ」と日米交渉の引き延ばしを要求している(ステイムソン、マクジョージ・バンデイ共著『平和と戦争への奉職』)。

 

日本が真珠湾攻撃とシンガポール・マレー攻略を準備しながら最後の日米交渉に臨んだように、米国も又、フイリピンを大急ぎで“不沈空母”にする準備を進めながら交渉を続けていた。

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ルーズベルト秘録〔下〕 産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班より。

 

「小生の感想」:

 

世界情勢の危機に際して情報に通じ的確に判断し決断出来る指導者を持てたことは米国にとって幸せだった。

 

 しかし、日本の指導者は、有能な人物に恵まれなかった。

この時期の近衛首相は、決断力のない責任感のない人物だった。

 

昭和天皇のお考えが戦争回避であったことを十分に理解していながら決死の覚悟で戦争を回避せず内閣を投げ出してしまった。

 

 海軍の及川海相や豊田副武は避戦であったが、及川は無口でおとなしい性格だった。

第三次近衛内閣が倒れた時、伏見宮博恭王や海軍省・軍令部首脳が熱心に海相留任を希望したが及川は固辞した。

 

 次期首相に任命された東条は、豊田を忌避した。

豊田海相は実現せず、代わりに嶋田海相になって、日本は戦争に突入した。

 

 東条は、陸相時代、ドイツ優勢との前提の下に、日本が米・英と戦っても負けることはないだろうとの考え方を発散させていたのである。

 

 だから、東条が首相になった時、戦争内閣と直感する人が多かったのである。

 

開戦。避戦の重要な時期に、皇室に悪影響を及ぼすことなく、陸海軍を纏められるような人物が存在しなかったことが日本の不幸であった。

 

 

 

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