戦艦 比叡 : 高速戦艦 悲劇の生涯   吉田俊雄

戦艦 比叡 :   高速戦艦 悲劇の生涯   吉田俊雄

 

比叡(昭和15年・改装後)

 

基準排水量:3万6601t

全長:222.05m

最大幅:31m

吃水:9.37m

馬力:13万6000

速力:29.7ノット

備砲:36cm砲×8

   15cm砲×14

   12.7cm高角砲×8

    8cm砲×8

 

大正3年比叡が就役した。

金剛に続き、比叡、榛名、霧島の4隻の金剛型高速戦艦が誕生した。

第一次大戦中、比叡などは東支那海付近を行動し全般作戦を支援しつつ、もっぱら本土を護り続けた。

昭和5年、ロンドン条約によって比叡は戦艦籍から除かれることになった。

そのため昭和4年に練習艦に改装された。昭和11年末に軍縮条約の有効期限が切れるのを待って再び戦艦籍に返り咲いた。

 

「真珠湾攻撃作戦に従事」

 

昭和16年12月、南雲機動部隊の支援部隊として比叡は霧島と共に従事した。

 

「南雲機動部隊」

 

ミッドウエー海戦後の昭和17年8月6日、アメリカ軍がツラギ、ガダルカナルに反抗してきた。

比叡はその時、広島湾の桂島錨地にいた。

第三艦隊が南雲機動部隊の脱皮したものとして編成され、比叡は霧島と組んで第11戦隊を作り第三艦隊固有の部隊となっていた。

 

「第二次ソロモン海戦」

 

8月20日、比叡を含む機動部隊は、トラック島の北方約300マイルに達し、一路トラックに向け南下していた。

この第二次ソロモン海戦では、日本は翔鶴、瑞鶴は無傷で龍驤が沈み、水上母艦千歳が至近弾二発を受け艦内に浸水しトラックに帰った。

アメリカは、空母エンタープライズが爆弾3発を受けたが沈まなかった。

その限りで見ると相打ちと評価しても良いが、飛行機の損害が日本にとって背筋を寒くさせるものがあった。

南雲部隊の全部の喪失空母機数は、零戦30,艦爆23,艦攻6,計59機。

アメリカ機の喪失は20機程であった。

 

「南太平洋海戦」

 

空母部隊は敵を捉えるのは敵味方ほぼ同時だった。

日本は瑞鳳を爆撃され、その後翔鶴が攻撃を受けたが飛行機を全部飛ばしたため鎮火に成功し戦場を離脱した。

アメリカ側は、空母ホーネットが沈没、飛行機74機喪失、空母エンタープライズに爆弾2発命中、戦艦サウスダゴタに爆弾1発命中だった。

 

「第三次ソロモン海戦」

 

阿部中将の「挺身攻撃隊」は、直率の11戦隊、比叡、霧島を中核とし、第10戦隊と第4水雷戦隊に護られ第2回の飛行場砲撃を行うため11月12日夜、ガダルカナルの北からまっすぐ砲撃海面に突入しようとしていた。

スコールが襲ってきたのは午後5時ころからだった。

午後10時ころからスコールは急に激しさを増した。

これでは変針も出来ない。飛行場砲撃もできない。

それより最悪の場合、どの艦かがサボ島にノシ上げることも予想された。

11戦隊司令長官阿部中将は、砲撃中止、反転を決意した。

 

「斉動Z(180度一斉回頭)」この時、重大な錯誤が起こった。

通信連絡がうまく行ったのかいかなかったのかしばらくわからなくなり比叡、霧島は40分ほどの時間を過ごしてしまった。

スコールが晴れたとき、0時35分、阿部中将は「再反転」と「砲撃再興」を命じた。

阿部中将が「再反転」を命じたときは、朝雲、村雨、五月雨の3隻は、いつの間にか比叡隊とすれ違って更に5キロも先を走っており、夕立、春雨の2隻はどうしたわけか、朝雲隊から10キロも遅れて比叡隊の先頭にいた長良の横を走りぬけようとしていた。

 

混乱のためおかしな体形のまま、阿部司令官も西田艦長も4水戦の高岡司令官もその他の誰も知らずに。

言い換えると誰もが今の体形では比叡の前方10キロ付近を4水戦の5隻が走っていると信じていた。

 

「比叡」奮戦

 

日本が敵艦を発見したのは、カッシンが夕立を発見した1分後(午前1時42分)。

「敵見ゆ」の緊急信が比叡にとんだ。

1時42分というのは、まったくきわどい時間でそれまで南東に進んでいた比叡隊がいよいよ砲撃をはじめる北東のコース(80度)に転舵し、その5分後に「撃ち方はじめ」を令しようとする3分前。

比叡としてはなんと言い表したらいいのか言葉に迷うようなタイミングであった。

 

午前1時51分、比叡がパッと探照灯を付けた。

青白い光芒が黒一色の空を切って伸び、アトランタをギラギラする白色に浮かび上がらせた。

それがきっかけだった。

傲然、橙色の閃光が飛び、比叡の36センチ砲弾がアトランタに向かって打ち出された。

三式弾が真正面にアトランタの艦橋に命中しその第一撃で次席指揮官であった歴戦のスコット少将をはじめとして艦橋にいた者全部を斃し生き残った者は幕僚一人という猛威を振るった。

 

しかし次に、味方駆逐艦がいる筈の所に敵駆逐艦がいて、比叡に向かって零距離射撃の砲弾を急斉射した。

比叡はその堅い部分―暑い防御甲板を鎧って居る部分は全く何ともなかったのに、その柔らかい部分―上甲板以上の構造物は蜂の巣のようになっていた。

比叡はただ一発の20センチ砲弾のために「舵故障」になり自由な運動が出来なくなった。

舵の修理に機関兵曹たちは懸命に努力していた。

 

夜が明けると艦の全力をあげて舵の修理が急がれていた。

折悪しくそこへ敵機の空襲が始まった。

バルジに魚雷が命中し大穴があき海水が奔入した。

そのころ誰かが駆けて来て、砲塔の上の艦長に大声で報告した。

「艦長、機会室全滅!」艦長は一瞬蒼白になった。

そこへ11戦隊司令官阿部中将から比叡を処分するという命令が来た。

 

「その孤独な死」

 

比叡の終焉には、常識では考えられないほどの行き違いが多かった。

比叡の通信装置が経過の速い戦闘中、敵弾によって断ち切られ、艦力がバラバラになってしまったせいもあった。

また、司令部があまりに早く比叡を離れてしまったことで、阿部中将が比叡の状況を的確につかめなくしたせいもあった。

 

比叡の救援に駆けつけた霧島が敵潜水艦から不意に魚雷3発を射ち込まれた。

その内1本が命中したが幸い不発。

それと見た阿部中将は、危険を感じて「霧島は反転北上、近藤部隊に合同せよ」と命じた。

これで霧島は比叡を曳っぱりに来ないことになってしまった。

 

全海軍が手に汗を握っているというのは、何とかして比叡を助けたいからである。

機械室の異常がなかったのに「機械室全滅」という誤報が最後まで訂正されなかった。

 

午後3時、阿部中将から「比叡を処分する。生存者を至急退艦せしめよ」という命令が来た。

第3砲塔の上にいる西田艦長としては、腸を断つ以上の無念さであった。

 

さらに艦長にとって不運であったのは比叡が最後の瞬間まで、舵の復旧に全力をあげていたことである。

艦長にたいして献策的な助言をする筈の士官たちは、殆どが切れたアキレス健手術の現場にいた。

 

太平洋戦争で決戦部隊(空母機動部隊)の一員としてその新しい形式の決戦を正面きって敵に挑む事が出来た戦艦は「大和」「武蔵」ではなく、「比叡」「金剛」「榛名」「霧島」の30ノットの速力の高速戦艦4隻であり、そのほかになかった。

機動部隊の空母が30ノットの高速で走るためそれを護衛出来る戦艦は4隻のみであった。

機動力の点で他の戦艦は近代海戦についていくことが出来なかったのである。

コメントを残す

サブコンテンツ

ブログの殿堂

ブログランキング

ブログ王

ブログ王ランキングに参加中! カテゴリー:芸術と人文/歴史

i2i

サイト内ランキング



フラッシュカウンター


忍者画像人気記事


このページの先頭へ