大東亜戦争考察―生かされなかった予測:歴史に消えた参謀、辰巳栄一

大東亜戦争考察―生かされなかった予測:歴史に消えた参謀、辰巳栄一

 

猪瀬直樹の「昭和16年の夏」によると、辰巳の構想を引き継いだのは、フランスの

駐在武官をしたことのある西浦進中佐だったという。

 

西浦がパリに駐在していたころ、フランスでも国防大学を設置する構想が浮上していた。

辰巳が接触したフランス駐英武官が「PRDC(英国の国防大学)」を調べ上げていたのもうなずける。

 

西浦が14年に陸軍省軍事課の高級課員になると、軍務局長の武藤章、陸軍次官の山脇正隆、参謀本部総務部長の笠原幸雄らに設立を働きかけた。

 

やがて、企画院総裁の星野直樹が実現に努力して設立が決まった。

総力戦研究所の名は、西浦が要綱案に使った「仮称」がそのまま使われた。

 

企画院の星野を所長事務取り扱いとし、各界から研究生を任命した。

16年1月7日の閣議後に陸軍中将に昇格していた飯村が事実上の初代所長に就任した。

 

第一期生として軍人5人、官僚25人、民間6人の36人が入所した。

聴講生として閑院宮春仁中佐が加わると、実力に権威が備わった。

 

さて、16年夏、日米開戦を想定した第一回総力戦机上演習は、図らずも「日本必敗」の予測が出た。

日米の戦争は長期戦であり、日本の国力はそれに耐えられない。

しかも、戦争末期にソ連の参戦も避けられず、「故に戦争は不可能」と言う結論であった。

 

総力戦研究所の演習とその分析は、実際の趨勢を的確に占っており、研究所の水準の高さを示していた。

仮想内閣による閣議報告は、真珠湾攻撃と原爆投下を除いて現実に起きた戦況に肉薄していたのだ。

それにしても、重大な時期の机上演習の成果は、何故、実際に活用されないまま、悲劇を生んでしまったのだろうか。

 

「対英米戦の賽は投げられた」

「独側に立つ」危険を電報で報告するが・・・・

 

晩夏を迎えた首相官邸の外は、にわか雨が降っていた。

近衛文麿首相は熱心に耳を傾け、東条英機陸相は真剣な表情でメモを取り続けた。

 

日米開戦を予想した総力戦研究所による机上演習のお披露目は、昭和16年8月27,28の両日に首相官邸で開かれた。

官邸には第三次近衛内閣の閣僚と、総力戦研究所の研究生による「窪田角一仮想内閣」の閣僚が相対していた。

 

仮想閣僚の方は、窪田総理を筆頭に外務大臣・千葉皓、内務大臣・吉岡恵一、そして、このとき34歳の日銀総裁・佐々木直の名前も見える。

 

首相に擬せられた窪田は此の時26歳、産業組合中央金庫(現農林中央金庫)調査部長であった。

日銀の佐々木は戦後に実際の総裁に就任しているから、このときがいわば1回目の就任にあたる。

 

「日本現在の国力をもってしては、敵と互角に戦える期間はせいぜい2年であり、その後は漸次国力が消耗し、最後にはソ連の参戦を誘致して日本は敗れるだろう」

(高山信武「昭和名将録」)。

 

窪田内閣は感情を交えずに、合理的な判断を下していた。

とくに、「ソ連参戦」の予測は、ドイツが独ソ不可侵条約を破った以上、日ソ中立条約を破って南下することは論理的な帰結であった。

 

「机上の空論」と一蹴

 

しかし、東条陸相は総力戦研究所による発表の最後に、自らの見解をこう述べた。

「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまで机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君達が考えている様な物では無いのであります。

日露戦争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります」

 

「諸君の考えている机上の空論とまでは言わないとしても、あくまでも、その以外裡の要素と言うものをば、考慮したものではないのであります。

なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります」

 

参謀本部作戦課にいた高山信武が辰巳栄一から直接聞いたところによると、この演習期

間中に東条は数回にわたって視察し、熱心にメモをとっていたという。

だが、東条は窪田内閣の机上演習を文字通り「机上の空論」として退けていく。

 

しかし、対米英戦争に対する警告は総力戦研究所だけでなく、首相の直属の機関である企画院からも出ていた。

客観データを積み重ねた彼らの積算もまた、「米国と戦争をすると、とたんに国力が半分になる」という過酷なものであった。

 

演習の3ヵ月後には、陸相だった東条大将が内閣の首相になり、12月には日米の開戦が現実のものとなった。

大東亜戦争の開始である。

しかし、窪田仮想内閣の教訓は、東条の脳裏に暗い影を落としていたに違いない。

 

やがて、あの16年夏と同じ「敗戦の報告」が東条のもとに届く日がやってくる。

辰巳は後に「もし日本がいち早く総力戦研究所を開設していたら」と悔やんでいる。

 

研鑽を積んだ研究生が、東条ら主流派に代わって軍、政府内で実務につき、勇断を持って国の進路を切り開いたのではないか。

辰巳は心の底から「大東亜戦争の悲運を避け得たかもしれぬ」と惜しむのだ(高山前傾書)。

 

 

 

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