大東亜戦争考察―太平洋の海戦 : 吉田俊雄著「致命傷を受けたミッドウエー海戦」

大東亜戦争考察―太平洋の海戦

「致命傷を受けたミッドウエー海戦」

 

吉田俊雄著、「戦争を動かした30人の提督」より。

光人社文庫。2001年8月発行。

 

ミッドウエー作戦の「接敵」の布陣が咄嗟の相互支援ができないほどバラバラに分散しすぎていた、と批判されている。

此れは、山本長官の作戦指導方針が間違っていたからだという説がある。

述べたとおり、彼は作戦については幕僚に委せっきりにしていた。

委せっきりにされていた担当参謀渡辺中佐と先任参謀黒島大佐は、揃って砲術出身で揃って外国駐在の経験がなく、だからどちらもアメリカを知らない、これは困った。

 

 連合艦隊司令部にも、作戦参謀三和義勇大佐(航空出身)、航空参謀佐々木彰中佐(航空出身)、水雷参謀有馬高泰中佐(水雷出身〕、それに政務参謀藤井茂中佐の四人が米国駐在で、アメリカを少なくとも二年間、ジックリと見聞していた。

 

 これに山本長官が米国駐在、駐米武官を経てアメリカ通であり、機関参謀二人のうち一人が米国駐在を経ているのを加えると、司令部十二人にうち半数の六人がアメリカを知っていた。

 

 此れは、対米戦の作戦指導と指揮をする連合艦隊司令部の顔ぶれとしては、第一級の布陣といえたが、実際はそれが生かされなかった。

 

 作戦は、将棋の抜群にうまい渡辺戦務参謀が担当した。

幕僚の意見の取りまとめも、渡辺参謀が当たった。

 

 普通、それは、先任参謀の役どころだが、黒島先任参謀は、私室にこもり、舷窓を閉めて暗くし,口付きタバコの敷島を立て続けにのんで、香を焚き、思索にふけり、司令部従兵からは「変人参謀」とか「仙人参謀」とか言われていた。

 

 つまり、前記六人のアメリカについての知識を、日本の海軍の危急存亡に役立てることができず、ばかりか、『世界最強』の南雲部隊を擁する『天下無敵』の連合艦隊を自負するあまり、気がゆるんでしまった。

 

 「開戦以来、航空部隊が活躍するのに、主力〔戦艦〕部隊は、まるで働く場所を与えられない。

広島湾の桂浜泊地で、脾肉の嘆をかこっている。

此れでは可愛そうだ、士気も落ちる、皆連れていこう。」

 

 連合艦隊出陣のミッドウエー大作戦が、こうして出来る。

速力23~24ノットしかない鈍足の・・・・それでも同型艦のうちでは世界一速かった旧式戦艦もでも連れていく計画である。

「ラクな作戦、一方的な作戦だから」

と、足手まといになるはずの低速戦艦までも加えた「大名旅行」。

 

参謀の一人から、旗艦「大和」が戦艦部隊の先頭に立って出て行くのは、不利でないだろうかと意見具申された山本が答えたという。

「情だよ。今国民は、食うものも食わずに我々に食物を与えてくれている。

国民は、長官がいつも先頭に立っていると思っている。桂島泊地などにどうしておれるか」

 

それはおかしい。いかにも顧みて他をいう気配だ。

此れは、想像だが、情は情でも、本当のところはこの低速戦艦までも連れて、一緒に出陣することを暗に指していたのではないか。

 

山本流のいわゆる「情の統率」である。

しかし、情が「兵理」を越えると、作戦は大きく制約され、あるいは破綻する。

 

  • ・・・・ミッドウエー作戦計画は、戦艦中心の艦隊決戦を狙い目としていた。

まず、南雲部隊が、占領部隊の上陸前、ミッドウエー島を空襲し、敵機、艦艇、防御施設を破壊。占領部隊がそれに続いて攻撃。

 

 敵有力部隊がハワイ方面から反撃してくる場合は、ハワイ・ミッドウエイ間に潜水艦を配備。

南雲部隊と主力部隊(山本長官の座乗する『大和』を先頭とした戦艦部隊)は、ミッドウエー島の北方海面、高速重巡部隊(近藤部隊)は、同島の南方海面に待ち構え、迎撃する手筈であった。

 

 海図に入れると、ミッドウエーの北西約450キロの飛行機発進地点に到着した時、主力部隊はその西方(つまり後方)560キロ付近にいて、重巡部隊は主力部隊の南方833キロにいることになった。

 

 水も漏らさぬ計画が立ててあった。

ただ、こちらの考えたシナリオ通りに米軍部隊が振舞った場合に成り立つことだった。

 

  • ・・・・敵は、南雲部隊がミッドウエーを空襲して、はじめて日本の意図を知る。
  • そしてあわてて敵艦隊がハワイから駆けつけてくる。

 

まさか敵空母が、3隻も、ミッドウエーの北東海面に待ち伏せ、南雲部隊のスキを衝こうと狙うとは考えなかった。

 どうして、こんな誤判断をしたのか?

 

こちらの思い込みが強すぎたのだ。

主観的になりすぎた。20日ばかり前、サンゴ海方面に向け急航する米空母2隻を味方飛行機が発見した。

彼らはこれを、「南雲部隊を怖がって豪州に逃込むのだろう』と考えた。

 

 山本長官でさえ、『今度は大物はいないだろう』と語っていたではないか。

誰も、敵がそこに来ていようとは思わなかった。

 

 だから、ハワイとミッドウエーの間に潜水艦を並べ、そこを敵艦隊が通る時に捕まえようとした潜水艦が、配備線につくのが予定の日に間に合わないことがわかっても、なあに大したことはあるまいと、そのまま放置した。

 キチンと配備線についていたら、まず、これが敵を捕らえてたはずだった。

 

 第二に、真珠湾を事前に飛行偵察し、敵艦隊がいるかどうかを確かめようとしたが、途中給油が出来なくなって中止した。

 

 第三に、ミッドウエー北東海面を偵察するため、ウエーキから飛行艇を飛ばせようとしたが、礁瑚が狭くて離水できず取りやめた。実はこの偵察海面に敵艦隊が潜んでいたのでそれを発見できたはずだった。

 

 第四に、飛行機用部品の整備が遅れ、南雲部隊の出撃を1日遅らせたが、他の部隊の予定は前のままとした。なあに平気だということだった。

が、そのため日本側は、最初に輸送部隊が敵機に発見され攻撃を受けるまずいことになった。

 

 第五に、1ヶ月前の珊瑚海海戦で、空母「翔鶴」と「瑞鶴」が使えなくなった。

ミッドウエーに行く南雲部隊は、空母6隻から4隻に減ったがなあに、たいしたことはないと4隻のまま出かけることにした。

 

 第六に、この作戦の主目的が何かという、もっとも重要な問題について、計画を作った連合艦隊司令部と、支援する立場の軍令部と作戦担当の南雲部隊との間に、大きな食い違いがあった。

 

 連合艦隊司令部では、敵艦隊を捉えて撃滅することに、力点をおいた。

しかし、軍令部では、それじゃおかしい、と考えた。

 

「いるかいないかわからぬ敵機動部隊を、作戦の主目的にするわけにいかぬ。

ミッドウエー攻略を主目的にすべきだ。ミッドウエーはそこにあって動かぬ。

目的は、明瞭で疑問を挟む余地がないようにしなければならぬ。

敵艦隊が現れたら、その時こそ、これを撃滅すべきだ。

此れは、当然すぎるほど当然であり、むしろ海軍の常識である。」

 

 机に座って計画を練っている秀才達には、其のほうがわかりやすいのだろうが、現場の戦闘員にはわかったようでわからない。

何やら不消化物を飲み込んだような気持ちだった。

ところが案の定、重大な誤算が起こった。

 

 インド洋から帰ってきた南雲部隊が、まっすぐに横須賀港に入港、幹部は上京、軍令部に顔を出した。

勿論、次の作戦の話が出る。

「目的は、ミッドウエー攻略、占領にある。」

 

 軍令部総長や作戦部長あたりから聞かされる。

そして、桂島泊地にもどり、連合艦隊先任参謀や担当参謀あたりから、違ったことを聞かされる。

 

 権威主義、形式主義的に育てられた海軍士官は、このような場合、東京にいて、天皇のスタッフである軍令部総長、ないし軍令部の発言に、より大きな権威があると解釈した。

 

 島の攻略が目的か、敵艦隊の撃滅が目的か。

どう決めるかによって、価値の置き方、優先順位が変わる。

 

 静かな海、順風に帆をあげたような事態の中にいるときには、どちらがどうでも、殆ど変らない。

しかし、一転、事態が急迫した時、処置を誤れば致命傷を受ける。

 事実、ミッドウエー海戦では、致命傷を受けたのである。・・・・・・

 

 

 以上、吉田俊雄著、「戦争を動かした30人の提督」より。

光人社文庫。2001年8月発行。

  • ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「小生の感想」

 

小生は、何故、日本海軍についての関係の本を読んでいるのかというと昨今の政治状態や中国の軍事的脅威が増す国際状況に原因がある。

 

 それは、大日本帝国が壊滅的な敗戦を蒙って占領軍の進駐を許してしまったことと無関係ではない。

だから65年後の今にその影響が噴出して愛国国民が苦しんでいる原因でもある。

 

 従って小生は、日本海軍の敗北の原因を突き止め少しでも日本の再建に生かしたいと思いこの記事を書いている。

特に、海軍中枢にいた人たちの戦争回顧録を読むごとに日本の敗北の原因が少しわかり今もそれを反省せず繰り返していることに思いいたる。

 

 我々は敗戦の貴重な経験を反省して生かしていかねばならないと思う。

そうしなければ、中国や東南アジアや南アジアや南洋の島々で戦死した200数十万の英霊同胞に申し訳ない気がする。

 

 そしてあの戦争で死んだ小生の家族や親戚のためにも供養になるのではないかと考える。

 

さて、本論であるが。

山本長官は、早くから航空機を重要な兵力として位置づけして画期的な戦法を編み出した秀才であった。

 

日本海軍の不幸は、その能力を現場の司令官でなく軍政畑で十分に発揮させることが出来なかった点にある。

 

  実際、長官は、連合艦隊の司令官として「情の統率」を行いうまくいったが「兵理」を超えてしまった。

そして作戦が破綻してしまった。

 

 彼は、人の好き嫌いが激しい人だった。

艦隊決戦を唱える頑迷な鉄砲屋を嫌った。

軍令部から、連合艦隊司令部の参謀長に宇垣纏少将を打診された時、山本長官は、彼が艦隊勤務の経験がないと断った。

そして6ヵ月後、艦隊勤務の経験を積んで司令部に派遣された時は、先任の黒島亀人少将が、真珠湾攻撃の作戦に拘わっていた。

 

 海軍では、先任に敬意を払う習慣なので参謀長として行った宇垣は、ツンボ桟敷に置かれた。

山本長官が、砲術屋〔鉄砲屋〕を嫌っていたので宇垣を無視して黒島を取り立てた。

 黒島は、確かに独創的だが変人であった。

水兵から「変人参謀」とか「仙人参謀」とか呼ばれていた。

 

 だから、連合艦隊司令部は、組織としての機能が発揮されなかった。

山本長官は、勝負事が好きで将棋も強すぎ、よほど強い者でないと相手が出来なかった。

司令部では、渡辺参謀が強かった。

あと二人が強いのがいた。山本は、寡黙で将棋を指して居る時、作戦についてボソッと何か言った。

 

 そうすると渡辺参謀が黒島参謀の部屋に行き、その作戦について案を考えた。

だから、特定な人たちによって作戦が計画されていた。

こうなると渡辺参謀が他の参謀の意見を聞くがそれが生かされることは少なくなり、主観的な作戦が出来上がった。

 

 このような理由で山本長官は適任ではなかった。

多分、嶋田繁太郎大将の方が適任だった。

彼は、海軍の伝統通り艦隊決戦をするため西太平洋でアメリカ艦隊を待ち受ける作戦を取ったであろう。

 

 当時の永野修身軍令部総長は、山本長官から交代したいという願いがあったにもかかわらず、続投させた。

長官の職は激務で2年間勤めれば大概、疲労し体に異常が現れたのであったが山本は我慢して続投した。

 

 この他の海軍の人事もかなり問題が多く、兵学校の卒業年次に拘り、勝てる戦いも負ける事例が多く不適財不適所であった。

 

 山本長官は、アメリカに勝つには、打撃を与え隙をみせず繰り返し攻撃しなければ国力が落ちる日本が勝つ見込みがないと考えていた。

だから、ミッドウエーでアメリカ空母を撃沈させて主導権を握ろうと考えた。

 

しかし、彼が信頼していた部下たちが、その心も知らず負ける虚心に敵の動きに神経を集中していれば負けない筈の戦いに負けてしまった。

 

 山本長官の次の手を打つことが出来ないほどの壊滅的な打撃を受けてしまった。

彼の作戦の最も頼りにする最強空母部隊を失ってしまったのであった。

 

 日本海軍の敗因は、教育と人事であったと言える。

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