大東亜戦争考察―戦争を指導したエリートたち
大東亜戦争考察―戦争を指導したエリートたち
大東亜戦争が終わって、40年以上もたった。
ハタチの青年がもう60歳を過ぎる年頃である。
其の間に、戦争について、いろいろ語られてきた。
語りつくされたようでもあるが、どうもまだ納得いかない部分もある。
何故あんな戦争を始めたのか、何故あんなにひどく負けたのか、一体、誰が何を考えて、どう動いたのか。
その人たちの背景、人となり、持ち味をふくめた人間性は、どうだったのか。
といっても、この人たちは、東京、霞ヶ関の海軍省や軍令部にあって海軍を経営し、戦争を指導したエリート、あるいは連合艦隊司令部で作戦を計画し指導したエリートたちである。
第一線で敵と切り結び、勝敗を争った、ふつうの海軍軍人たちではない。
この人たちは、20人に一人とか、30人に一人とか言われた「狭き門」を突破して、海軍兵学校に入校したエリートである。
そのエリート20人のうち3人が海軍大学校に入ったが、其の中でも成績のよい、いわば超エリートが、海軍省、軍令部、連合艦隊司令官に配員され、海軍経営や戦争指導の衝に当たった。
そして、対米戦争には「勝算あり」と判断し、「戦うのは今だ。今をおいてほかにはない」と叫び、戦争になると、「敵は鎧袖一触だ」と胸を張り、マーシャル群島を奪われても、自信満々、「なあに、小指の先がちょっと膿んだだけだ。メスをいれりゃあすぐ治る」と言い捨てた。
何か、これにはよほどのわけがあったに違いない。それを探求しなければならない。
「人間・太平洋戦争」の一環として「人」に根差した要因を求めるのである。
「勉強しなかった海軍幹部」・・・・・・・・・・・・・・
「この戦争を始めたのは、俺だよ」
そう自分から、自分のスタッフに公言した司令官がいた。
大23航空戦隊司令官(セレベス・ケンダリー基地)石川信吾少将。
開戦マル2年目に入った昭和18年。
そのケンダリー基地での話しである。
彼は、北部仏印進駐と日独伊三国同盟調印で、日米関係が急に緊張の度を加えた昭和15年11月から開戦半年までの約1年半、海軍のとるべき政策の企画立案を担当する軍務局第2課長だった。
政策担当課長というのは、ある問題や案件について、海軍はどう考え、どんな態度、行動をとるかを研究起案する、事務当局の長である。
もちろん、海軍政策を決め、実行する最終責任者は、海軍大臣である。
其の補佐役として、海軍次官(中将)や軍務局長(少将)がいる。
本来、ボトムアップ式の、日本流の官僚機構を作っていた海軍の意思決定組織では、だいたい、事務当局の起案が、マイナーな訂正がついて大臣まで持ち上がるのが普通で、突っ返されることは、まず少なかった。
10年1日のように、世の中がゆっくりと動いているときは、このような姿勢でもよかった。
明治が終わり、大正、昭和の時代に入ると、情勢の変化が早くなり、大きくなった。
上級幹部や指揮官は、スタッフや部下が担ぐオミコシの上に左ウチワで座っていればよい、というわけにいかなくなった。
トップ自身、オミコシを降り、勉強しなければならなくなった。
この状況の変化を、じつは「誰も」といっていいほど注意せず、自分のものにしていなかった。
「日露戦争のときの通りにしていなければならない。昔のままでなければならない」
嶋田大将などこう言っていた。
それほど強烈でなくても、なんとなく勉強しなかった人たちが多かった。
例えば、永野修身大将。
戦後、アメリカから飛んできた戦略爆撃調査団が、大がかりの事後調査をはじめ、手分けして海軍幹部に話を聞いた。
其の中で、永野との問答の一部に、こんなやりとりがあった。
(昭和20年11月20日、東京)。
「問、 永野閣下。私たちは、今度の戦争中の日本の潜水艦の使い方に、非常な興味を持っています。あなたがたは、潜水艦の用法について、とくに制限をつけたり、訓令を出したりしたことがありますか」
「答え、 私は、潜水艦について、残念ですが、殆ど何も知りません」
耳を疑いたくなる永野の答えだが、これは米国戦略爆撃調査団第392号による公式記録の一部分である。
最高指導者が、自分の責任事項について、「残念ですが、殆ど何も知りません」
といったのだから、永野総長への質問を担当をした米海軍の首席調査官は、アメリカ流の考え方からすると、呆気にとられたのだろう。
こんな質問をそのすぐ後している。
「問、 永野閣下。あなたは日本の最高統帥部で犯した過ちは、どんなものだったとお考えになりますか。
閣下のご意見では、高級将校が年を取りすぎていたとか、航空に関する認識に欠けていたとか、経験が狭く限られていたとか、ということになりますか。
統率―軍隊の能率を低下させる主な原因となったことが他にありますか。」
「答え、あまりに年を取りすぎていたか、というご質問が出たので思い出したのですが、軍令部総長があまりに年寄り過ぎていたことは、どうもお説のとおりのようです。」
いやはやである。長野総長は、ここでも自分が年を取りすぎたことを認めていた。
年を取りすぎて、若いときに勉強した以降に出現した潜水艦や飛行機のことは、あらためて勉強する意欲をなくしていたのだろうか。
このとき、永野、62,3歳。
まだ若い(?)のに、ずいぶん老け込んだものである。
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