大東亜戦争考察―蘭印解放作戦(4)-小磯国昭の蘭印交渉策

大東亜戦争考察―蘭印解放作戦(4)-小磯国昭の蘭印交渉策

 

 海軍軍令部は、昭和15年5月に、第四艦隊にパラオ諸島方面への急速出動準備を指示した。

司令長官は、片桐英吉中将。

しかし、戦力は、水上母艦2隻、巡洋艦2隻、軽巡1隻と潜水戦隊であった。

哨戒や偵察能力は絶大であるものの、直接の水上戦闘能力は大したことはなかった。

 

 このような経過のあと日本は、蘭印から石油他の物資を購入しようとして、特使をジャカルタに派遣し、蘭印総督と交渉した。

 

 この日蘭印間の経済交渉は昭和15年8月から翌年6月まで1年近く続いた。

はじめの特使は経済界の大立者である現職商工大臣の小林一三で、次が外交界の大立者である

元外相・勅撰貴族院議員の芳沢謙吉であった。

 

 経済交渉は、蘭印総督の強腰によって失敗し、昭和16年6月17日に打ち切りとなった。

其の直後に、かねてから懸案になっていた日本の南部仏印進駐が決定するのであるが、この進駐にはオランダ総督府を威嚇して、日本の要求を受諾するよう再考させようとの意図も含まれていたのである。

 

 結果は、日本の願望とは反対に、米英蘭の全面的な経済断交となり、日本は急速に太平洋戦争へと傾斜していく。

 

 小林特使の選任に先んじて、陸軍大将で前拓務大臣の小磯国昭が候補にあがったことがある。

 

「準戦時の外交は、平時とは違ったやり方をしなければならない。

使節はよろしく軍艦で送り、交渉中は軍艦をバタビア港外に待機させ、必要の場合にはいつでも陸戦隊を上陸させるくらいの気勢を示さなければだめだ」

 

 小磯の主張であった。

ちょうどペリーの艦隊が、日本を開国させたときのやり方である。

 

小磯は、近衛首相に、特使を受諾するための希望条件を提出した。

 

「現地で実力行使を必要とする場合には、いちいち高等統帥の命令を待つことなく、出先機関で独断決行できるよう、軍事関係者にあらかじめ訓令を与えられたい。」

 

 新聞記者に対しても、小磯は公言していた。

「仏印や蘭印など主人公を失った地域に対し、東亜の安定勢力である日本が力となってやるのは、道義的にみても正しいことだ。」

 

 小磯の考えかたでは、インドネシア人を解放するのではなく、オランダ人の地位に日本人が代わるということのようだ。

このような古い感覚では、インドネシアにおける日本の政治が成功するのは、極めて困難ということになる。

 

 軍艦に乗り込んでジャカルタに行くという19世紀的な砲艦外交に、日本海軍はいささか仰天した。

小磯特使の軍艦便乗に否定的であった。

 

 小磯は、それでは一般商船で行くが、別に軍艦と陸戦隊を用意するよう求めた。

そして陸戦隊の力では足りない場合を考えて、さらに陸軍部隊2個師団の用意を要求した。

 

 近衛首相・松岡外相・東条陸相・吉田海相の四省会議の席上においてである。

小磯の要求には東条も吉田もしり込みした。

 

 あとで近衛は、直接吉田に電話してきた。

「師団はとにかく、軍艦を出してもらえないか」

吉田はことわった。

小磯特使は流れ、代わって小林一三の選任となったのであった。

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  〔山本五十六再考〕野村實著。中公文庫より。

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「小生の感想」

 

 軍艦で石油が手に入れば安いものではないか。

 

戦争しなくてすむのだから。

東条は、対米戦を辞さずと主張していたが、特に進んで戦争したかったのでなければ2個師団や陸戦隊ぐらい派遣したと思うが何故反対したのか理解に苦しむ。

 

小磯は、国のことを良く考えた上での案であり、小生は賛成である。

19世紀度砲艦外交であろうが、軍艦はいくらでもあるのだから、利用すべきであった。

 

 軍事的存在はかなりの効果があると思う。

インド洋に日本海軍の軍艦戦隊が現れれば、蘭印総督も脅えて経済協定を已む終えず結んだと思う。

 

オランダ本国がドイツに占領された状態で総督が何故、強気だったのかを考えて情報を集めれば、奴らは英米と連絡をとって日本に石油を売らないように圧力をかけられていたと察しがつくというもの。

 

 だから、日本は石油のために相当な決意を有しており、経済協定が纏まらなければ蘭印を占領する積りだと脅かせば、彼らは石油を売ったであろう。

 

石油が手に入りさえすれば、仏印進駐も必要なく英米もドイツ軍との戦争で手と頭が一杯だったのだから米国の経済制裁もなく太平洋戦争は避けられた筈だ。

 

こういうところが、日本人の欠点である。

日本人の性格としてはずるいと思われたくない心理が働くであろうが、外国人は日本人の数倍ずるいのだから心配することはない。

 

 近衛内閣は、近衛が無能で大事なことを決定出来なかった。

勿論、吉田善吾海相も事なかれ主義で、開戦反対を主張せず、東条陸相は、開戦派の主要人物であった。

 

 日本にとって重大な時期に海外情勢や日本の実力を見て開戦反対を主張した海軍軍人は、少数派だった。

米内、山本、井上の三羽烏しか残っていなかった。

 

 海軍は、伏見宮博恭王が軍令部総長になってから、伏見宮が好む人物を、海軍大臣や軍令部の要職につけていった。

及川、永野、嶋田のような背が高く宮の好む人物を選んだ。

 

昭和5年の第一次ロンドン軍縮会議のいわゆる統帥権干犯問題を契機として、条約派・艦隊派と呼ばれる内部分裂を引き起こした。

日本海軍の伝統からすると、ときの海相・財部彪、海軍次官・山梨勝之進、海軍省軍務局長・堀悌吉の意見に従って一つにまとまらなければならない筋合いであった。

 

 ところが博恭王と東郷平八郎が、海軍軍令部長・加藤寛治、軍令部次長・末次信正、軍令部第一班長・加藤隆義の側を支持する傾向が強く、結局は喧嘩両成敗の形となってしまった。

 

 昭和7年3月、博恭王は海軍軍令部長に就任した。

これは加藤寛治の熱心な働きかけにより、東郷が強く主張して実現したものである。

 

昭和8年、博恭王は海軍軍令部長から軍令部総長になった。

そして昭和8年から9年にかけて、いわゆる条約派といわれた穏健な提督たちが、次々に現役から追われたのであった。

 

山梨勝之進、堀悌吉、それに左近司政三、寺島健などが其の中に含まれていたことはよく知られている。

 

日本海海戦で東郷平八郎は、日本海軍を勝利に導いた殊勲の提督であった。

しかし、東郷が艦隊決戦でロシア海軍を破り、艦隊決戦に固執するのはわかるが引退してから、口出ししなければ、其の大事な海軍が滅ぶことはなかった気がする。

 

 

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