大東亜戦争考察―蘭印解放作戦(3) 「米英の反応を予測する」

大東亜戦争考察―蘭印解放作戦(3) 「米英の反応を予測する」

 

さて我々は現在、イギリスやアメリカの公文書を検討する場合、日本がインドネシアに進撃したとき採ろうとするこの両国の軍事政策が、時間の経過とともに、かなり急速に変転していることに気付く。

 

 オランダ海軍の目的はもともと、本国と蘭印とのシーレーンの防衛と、蘭印の群島内の海域防衛であった。

 

 したがって戦艦を保有する気はなく、日本と衝突する場合には主としてイギリスの援助に頼るのが願望となっていた。

 

 オランダ本国は、蘭印の安全はイギリスの利益であるとの考え方から1936(昭和11)年、極東の防衛に関し会談を行うようイギリス政府に提案した。

 

 このとき、イギリスの態度はどうであったか。

「オランダが防衛力増強に努力することは望ましい。

しかし、英蘭共同防衛計画を策定するのは、現時点で賢明でない」

 

 イギルス政府から検討を依頼されたイギリス国防委員会の同年7月の勧告である。

イギリス政府は,蘭印が攻撃された場合、イギリスが防衛に協力するとの確約を与えなかった。

 

 だが、蘭印のオランダ軍が適当に装備されて、防衛力を増進するのは、もとよりイギリスの望むところであった。

 

 それでイギリスの空軍省はこのあと、オランダ当局と航空の技術問題について会談することになった。

 

 第二次世界大戦が1939年9月に突発したとき、蘭印の空軍は陸軍航空約100機、海軍航空約50機に成長していたのである。

 

蘭印の危機は、なんといってもオランダ本国がドイツ軍に蹂躙されたときにやってきた。

 

「石油は近代国家の血液」

「石油の一滴は血の一滴」

このように言われた石油に飢える日本が、政治的にも軍事的にもほぼ真空状態となった蘭印に、吸い寄せられるかもしれないと、世界の軍事専門家の誰もが考えるようになった。

 

 この事態に対しチャーチルの戦時内閣が、極東の防衛問題を検討した議事録が残っている。

会議が開かれたのは1940年8月8日、場所はダウニング街10番地の首相官邸であった筈だ。

 

 「日本が蘭印を攻撃して、オランダが日本と戦わない場合には、イギリスは日本に対し開戦しない。

オランダが日本と戦う場合には、イギリスはオランダに全面的な軍事協力を行うことになるだろう。」

 

会議の結論の重要な1つは、このようになった。

 

 イギリスは、蘭印防衛の約束をするのに、極めて慎重だったが、この伝統的な態度はこのときも変わらなかった。

 

「オランダは、蘭印防衛の英蘭共同防衛作戦計画の策定を望んでいる。

しかしイギリスによるオランダ支援は限度があるし、またイギリス領土が攻撃された場合には、オランダがイギリスを援助するのは不可能である。

 したがって現段階では、英蘭間で参謀会議を開催するのは望ましくない。」

 

 それではいつになったら英蘭間で参謀会議を開いて、共同防衛の作戦を検討することが出来るのか。

 

極東に戦闘機隊や長距離基地航空部隊が派遣され、自治領からマレーに一個師団が送られ、イギリスの建艦計画が促進されるなどにより、マレー半島防衛の状態が改善されたときになって初めて、イギリスはオランダと参謀会議を開いて、蘭印防衛の共同作戦計画を検討できるとしたのである。

 

二国間以上の共同作戦は、事前に参謀間で作戦計画をかなりの程度に煮詰めていかないと、有効に遂行できないことは、歴史の示すところである。

軍人なら誰もが知っていることだ。

 

以上の1940年夏のチャーチル内閣の考え方からすると、この時点で日本が疾風迅雷的に対蘭印作戦を展開すると、オランダは抵抗の意志を失う可能性が高い。

そうすればイギリスは、対日戦に踏み切らない。

そして日本の対蘭一国作戦が終了するわけである。

 

日本がスカルノやハッタを救出すると、オランダの圧政からインドネシア人を解放する「聖戦」との名目をも、日本は手中にしうるだろう。

 

あと残るのは、アメリカの態度だ。

 

ドイツが西部戦線の航空機と陸上戦で勝利を収めたあと、ルーズベルトの最大の関心は、ドイツと直接に戦闘を交えるほかの一切の手段で、イギリスを援助することだった。

 

対英援助物資の輸送を、必要ならアメリカの船舶で送る。

アメリカ海軍が護衛もやる。

発砲しない限度で艦艇や航空機が、イギリス軍とともに戦う。

 

アメリカ軍が使用するタンクや大砲や小銃がさしずめ無くなってもよい。

イギリスに最大の援助を与えて、ドイツの進出を防いでもらう。

 

イギリスとは運命共同体だ。

これがルーズベルトの考え方であった。

 

日本が蘭印に侵攻するかもしれない。

これも勿論、ルーズベルトの関心の一つであった。

これに対処して、ドイツの西部戦線の攻撃が始まる直前に、アメリカ艦隊主力の無期限のハワイ駐留を命令し、日本の南進をにらむことにした。

 

しかし、重要なのは、次の戦略だった。

「太平洋では防勢をとる。日本が軍事行動に出ても、これに介入しない」

 

昭和15年夏に日本が迅速な蘭印開放作戦を行う場合には、イギリスについでアメリカも、日本の作戦行動を阻止することは出来なかったわけだ。

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〔山本五十六再考〕野村實著。中公文庫より。

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「小生の感想」

  • 情報の収集と分析

 

日本海軍も陸軍も情報を軽視していた。

軍令部や作戦部はあって優秀な人材を沢山集めていたが、情報部は名前だけあっても、少ない人数で優秀な人材は配属されなかった。

 それに、海軍士官学校と海軍大学に情報将校養成のコースがなかった。

 

従って、仮想敵国の情報を得るのにかなり困難であった。

大使館員や大使館付武官や留学組みとか日本移民や商社員などに頼る他なかった。

 

情報を収集して分析する部門がなくては、外国とりわけ仮想敵国の情報収集は難しかったと言わねばならない。

 

 もし、強力な情報部を持ち、資金や人材をつぎ込んでいたら、孫子の兵法にある、

「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」で対英米戦もあれほどの敗北は避けられたと思う。

 

 蘭印解放作戦の前に、英米蘭の考えを少しでも理解できていれば、〔蘭印解放作戦〕は成功し、日本が石油で悩むことがなく対英米戦も避けられたかもしれない。

 

 そして北部仏印進駐も行わずにすんだわけである。

陸海軍が情報の重要さをもっと認識していたらもっと違った歴史を見ることが出来たであろう。

 

  • 指導者

 

日露戦争に勝利してから、しばらく戦争がなく大正、昭和と日本軍の驕りとたるみが出てきて、優れた指導者が見あたらなかった。

 

明治の指導者が姿を消すと、陸海軍は学校秀才のみが重要な役職についた。

 

海軍においては、艦隊決戦至上主義で教育内容や訓練内容は、艦隊決戦ばかりとなり、しかも図上演習で勝負を判断するのにエネルギーを注いだ。

 

艦隊決戦の戦術を工夫したが、肝心の戦略を考える者が少なかった。

だから、海軍の指導者は、対英米戦の戦略を思考することが出来なかった。

 

また、科学的、合理的な武器の研究、開発の面で遅れがあった。

例えば、海軍航空は、山本五十六が中心になって研究したが、それは、彼の欧米滞在の機会が多く、

世界の航空の進歩を実感したからであり、海軍が組織的に研究したからではなかった。

 

 山本の努力で、日本の航空戦力は向上したが、しかし、搭乗員の養成や戦闘機量産体制の充実を山本が言っても理解出来る人間が少なかった。

 

又、この時代、総理大臣に適任者がおらず、近衛文麿のような無責任な最悪の総理大臣しか見あたらなかったことも悲劇であった。近衛と鳩山と管は無責任と幼稚さにおいて似ているところがある。

 

 だから、土壇場になって東条英機という開戦派で野心家で精神主義者で非合理主義者を木戸内大臣の進言により首相にしてしまい大東亜戦争の火蓋を切ってしまったことが日本の悲劇であった。

 

 

 

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