大東亜戦争考察―実らなかった山本海相案(4)「消えた山本海相案」

 大東亜戦争考察―実らなかった山本海相案(4)「消えた山本海相案」

 

 第三次近衛内閣の和戦を決する断末魔のとき、及川は〔総理一任〕の態度に出て、近衛は内閣を投げ出す。

 

後任海相の選任を、及川は専行せずに沢本次官の意見を求めた。

 

沢本はちょうどそのとき、海相官邸で、海軍省の岡敬純軍務局長・中原義正人事局長、それに軍令部の伊藤整一次長・福留繁第一部長と会談中であったので、五人で協議して、後任海相として豊田副武を押すこととして、及川に答申した。

 

 山本海相を期待するという予備役長老たちの考え方は、現役の海軍省・軍令部首脳には通じていなかった。

東京裁判に起訴されて終身刑の判決を受け、仮出所後は世田谷の自宅に引きこもった岡に、私はしばしばインタビューしたことがある。

 

「山本大将が東条内閣の海相として最適任であったことは確かだ。

しかし、連合艦隊司令長官として動かせなかったので、当然、豊田副武ということに一致した。」

 

 岡の回想だ。

豊田が避戦派だったことは先に記した。

 

 事務当局の思考の範囲では、さしせまった時局で、連合艦隊の複雑きわまる作戦計画を立案する責任を負っていた山本を、そのポストからはずすことは、思いも及ばないのは当然であった。

 

 ただ、及川の立場から考えると、山本を後任海相として推薦することは、容易であったはずだ。

 

 山本を海相として海軍が推薦するためには、最終場面で元帥・伏見の宮博恭王の了解をうる必要がある。

博恭王と山本の間は、すくなくも表面上は順調に経過していたと信じられるので、了解が得られた可能性は高いであろう。

 

 山本は昭和16年秋、たびたび用務のため上京している。

旗艦「長門」は9月9日から10月3日まで、横須賀に入泊してもいた。

 

 山本海相が期待されている東京の空気を、知らなかったはずはないだろう。

海軍省には親交のあった榎本重治もいた。

 

 東条内閣が成立するとき、豊田が東条に忌避され嶋田が海相となった。

 

南遣艦隊司令長官に赴任途中の小沢冶三郎が、室積沖の「長門」を訪れた時、山本は小沢の言葉からその経緯を知った。

 

同期生として嶋田をよく知る山本は、

「井上でないと駄目だ。井上なら東条と堂々と渡り合えるのに」

といかにも残念そうに嘆息した。

 

 井上はトラック環礁にあった。

呼び戻すとすれば、飛行機で1日で可能だ。

しかし、当時の海軍の人事の伝統からは、井上海相は4年か5年早すぎる。

 

及川は海軍兵学校の31期、山本と嶋田が32期、豊田が33期なのに対し、井上は37期だ。

 井上成美中将の海相就任は不可能ではないが、きわめて異例となる。

 

 山本はもし海相となれば、命を捨てて戦争を阻止しようと決意していたであろう。

山本には自身の決意が、井上成美の姿と二重写しになっていたはずだ。

 

 小沢は、山本が、これから実施しなければならないシンガポール作戦について、なにも指示しないので、自身から口にした。

山本が答えた。

 

「マー適当にやってもらう」

山本の心は作戦ではなく、開戦か避戦かにあったのだ。

 

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