大東亜戦争考察―実らなかった山本海相案(2)「天皇に衝撃を与えた永野報告」
大東亜戦争考察―実らなかった山本海相案(2)「天皇に衝撃を与えた永野報告」
昭和16年7月29日、侍従武官の城英一郎大佐は、天皇のまえに進んで、軍令部から侍従武官府に届けられた書類を読み、日本海軍の戦時編成の改訂について説明した。
最も大きな改訂は、それまで兼務だった連合艦隊司令部と第一艦隊司令部を分離し、連合艦隊司令長官が戦艦「長門」「陸奥」の第一戦隊のみを直率し、別に第一艦隊司令部を新設して戦艦「日向」に司令部を置くというものであった。
前日にはすでに、及川古志郎海相が人事について内奏し、連合艦隊司令長官には山本五十六大将をあて、新しい第一艦隊司令長官には現軍令部次長の近藤信竹中将を新補していただきたいと申しあげていた。
前夜、豆台風が八丈島方面を掠め、東京は朝のうち小雨が残ったが、天候はしだいに回復しつつあった。
城は海軍将校としての専門知識から、気象通として皇居で重宝がられ、この日は天候についても天皇に説明した。
日本軍は間もなく南部仏印に上陸しようとしており、フランスのヴイシー政府からこの情報を得たアメリカは、すでに日本の在米資産凍結を発表していた。
城には、天皇が軍令部長自ら上奏するよう期待しているように思えた。
翌30日、永野修身が拝謁して、仏印進駐に関し報告した。
このあと椅子を与えられた永野の言葉に、天皇は衝撃を受けた。
「日米国交調整が出来ずに石油の供給源を失うことになりますと、2年分の貯蔵量しかなく、戦争となりますと1年半で消費してしまいます。
むしろこの際、こちらから打って出るしかないと考えます」
天皇が詰問した。
「提出書類には、日本が勝つと書いてあるが、日本海海戦のような大勝はむつかしいのではないか」
永野の奉答が、さらに天皇を驚かせた。
「書類には持久戦でも勝算ありと書いてありますが、日本海海戦のような大勝は勿論、勝てるかどうかもわかりません」
このころ健康の衰えが目立つ永野の拝謁は、午後三時から一時間に及んだ。
永野が退席するとすぐ、天皇は侍従武官長の蓮沼蕃を呼んだ。
「永野は好戦的で困る。海軍の作戦はステバチ的だ」
不満を述べて天皇は、ただちに内大臣・木戸幸一と相談するよう命じた。
7月31日、午前中に拝謁して永野の奉答の内容を確認した木戸は、すぐに及川と面談した。
時計は正午を指していた。
まだ雨が続いていた。及川は言った。
「永野は天皇の前で堅くなり思っていることをうまく言えないのです。
結論だけを端的に言うので、誤解されたのだと思います。話下手が原因となっています。」
これは及川の表面上の取り繕いにすぎなかった。
事態は深刻だったのだ。
永野の奉答の背景には、永野の拝謁の前日における沢本海軍次官と近藤軍令部次長との論争があった。
そして及川は沢本から、詳細な報告を受けていたのである。
「小生の感想」
海軍の中央部の要職を占めていたもの首脳達には驚く他ない。
これらの者たちによって開戦となったことは、日本国家にとって悔やみきれない。
昭和天皇陛下は、さぞ宸襟を悩まされたことであろう。
この連中は、輔弼の役を果たしていない。
何故こうなったのか?
やはり、海軍人事制度で卒業年次で身が安泰だったからである。
余程の事がない限りすぐに、更迭される制度がなかったからである。
全く、無責任であり、この上層部の一握りの人物たちによって栄光ある大日本帝国が滅ぼされてしまったのである。
開戦か否かという大事な局面において無責任に開戦を選択したか、いや、時流に流されたのである。
海軍首脳部が勇気を持って戦えば負けると言わなかったことは、万死に値する。
海軍首脳さえノーと言えば太平洋における大戦争は出来なかったのである。
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