大東亜戦争考察―何故東条に大命が降下したか。

大東亜戦争考察―何故東条に大命が降下したか。

 

東条英機への大命降下は木戸内大臣の進言により、天皇が東条に、避戦への取りまとめを期待して行われたものであったが、第三次近衛内閣で避戦への方向づけに努力していた海軍省首脳部にとっては、大きな衝撃となった。

 

 政策を担当していた軍務局長の岡敬純は当時、その趣旨を聞いて「とんでもない事」と発言している。

 なお岡は、此の件の東京裁判に置ける審理のあと、木戸が当時の企画院総裁・鈴木貞一の言動に影響されて、東条を推薦する結果となったと判断した。

 

 さらに当時の内閣書記官長・富田健冶は終戦直後、「東条は最初から政権を狙って動いていたと思う」との未公開の証言を残している。

 

 「東久邇宮内閣に反対した木戸」

 

よく知られるように、近衛の誕生日に当たる昭和16年10月12日、近衛の別邸である荻外荘で、近衛首相、豊田貞次郎外相、東条陸相、及川海相の四相が会談した。

 

 鈴木企画院総裁も同席していたが、この会談の席上で東条が一人、日米交渉成立の見込みがないとして即時開戦を主張し、他の3人が反対して会談は流れた。

 

 及川が近衛から、内閣投げ出しの意志を聞かされたのは、10月16日午前11時であった。

沢本日記によると近衛は、四相会談のあと2回、東条陸相と数時間に渡り話あったけれども意見が一致せず、東条は鈴木を介し10月14日、

 

「これ以上総理と会見しても、かえって感情を害するだけであるから、会わない方がよい」

と最後通牒をよこしたので、もはや総辞職するほかない、と延べ、及川にだけに話すとして、「後継については考えがある。東久邇殿下がよい」と語った。

 

 海軍省首脳は其のあと、10月17日の重臣会議で後継が東条と決まるまで、つぎは東久邇宮内閣と考えていた。

 

 しかし、現実の歴史は、海軍首脳部の思惑とは異なって、急速に展開していたことは、木戸幸一の日記を一読するだけで明白だ。

  (略)

木戸が後継首班として東条を天皇に奏請した理由は、木戸日記からは明確にわからない。

木戸が当時の心境をもっとも詳細に述べたのは、東京裁判に提出した宣誓口述書においてである。

核心部分だけを要約しておこう。

 

「政府が絶対的な平和政策を確立するまでは、皇族内閣は天皇から裁可されないと考えた。

最大の問題は、9月6日の御前会議決定を取り消して新しく出直すことと、陸軍の統制問題である。

 

このためには全般の事情に通暁している者が組閣する必要があるが、候補としては東条か及川しかいない。

 

及川とすれば海軍は開戦を希望しないから、陸軍が反発するだろう。

もし、東条が選ばれて、9月6日の午前会議を無視するよう下命されれば、東条は陸軍を統制することが出来、東条がアメリカと平和交渉をつづければ、内閣辞職により開戦を予期しているアメリカへの影響も、好転するだろう。

 

 辞表を奉呈して退下してきた近衛に右の件を話したところ、近衛も東条に賛成した。

最近の東条との会談では、海軍が反対であれば、東条に開戦する気持ちがなく、思慮深くなっている。

 

数日来の東条の考えは、明らかに変化している。

 

「鈴木貞一の動き」

 

ちなみに木戸日記の記録によると、近衛が総辞職の決意を固めたあと東条と決まるまでに、木戸と鈴木の間には四回の接触があった。

 『略』

 尚、政変の事情に詳しい内閣書記官長の富田健冶が、終戦直後に語った未公開の資料がある。

富田が昭和20年11月23日、丸ビルに置いて高木惣吉に語った内容で、高木がメモしたものだ。

 

 「東条は鈴木を通じて、近衛総理にはきわめて強硬な通牒を突きつけながら、木戸内府には、陸軍を押さえうる者は必ずしも東久邇宮に限らぬこと、対米戦争に突入する前提で考えていないこと、即ち白紙から検討する可能性あることをほのめかしていたので,内府は東条を非常にあまく観測していた。」

 

 此のとき富田は、昭和16年12月から翌年3月まで、開戦決意を引き延ばせば、戦争が避けられただろうと言った。

 

富田がこのように言う根拠は、ヨーロッパの戦況とはいちおう離れて、当時は、12月初旬までに開戦しなければ、その後は天候気象などの関係で開戦できないし、亦当時の陸軍の考え方は、翌年3月には北方ソ連に備えるために引返さなければならないので、その間に南方作戦を片づけるということであったからだ。

 

「遡って推論すると、東条は最初から政権を狙って動いておったので、その下働きや相談に預かったのが鈴木と思われる。」

 こんな疑念をも富田は漏らしたのである。

 

「陸軍の統制問題を過大に評価?」

 

明治以来の陸海軍の対立は、日本にとり致命的な欠陥であったが、開戦・避戦の重要な時期に、皇室の存続に悪影響を及ぼすことなく、陸海軍をまとめられるような人物が存在しなかったことが、日本の不幸であったわけだろう。

 

 東条内閣を戦争内閣と直感する岡の感覚は、ごく常識的なものと言うほかない。

東条は陸相時代、ドイツ優勢との前提のもとに、日本がアメリカ、イギリスと戦っても負けることはないだろうとの考え方を発散させていたのである。

 

 それは、彼の誕生してからの、知能・性格・環境・教育・努力などが集約的に出てきたもので、短時日のうちに変化するとは考えにくいのである。

 

 ちなみに東条への大命降下のとき、呉鎮守府司令長官の豊田副武破、及川から上京を命ぜられて海軍大臣官邸にいた。

 

東条内閣への海相候補としてではなく、東久邇宮内閣となるであろうと予期されていた次期内閣への海相候補としてである。

 

 東条は豊田を忌避するのだが、豊田の方では東条内閣と知って、これでは「どうしても戦争に突入するほかはない」と考えて、辞退の腹を決めたとの口述記録を残している。

 

 最も、木戸が東条を奏請した理由に、陸軍の統制問題があげられている。

終戦の時には陸軍の中央部に、クーデターの気配がみなぎっていた。

しかし、検討する範囲では開戦前にはそうではなかったと思う。

 

 木戸が鈴木の言動に影響されたかどうかは別として、木戸が陸軍の統制問題を過大に考えすぎたのではないかと、私には思われる。

 

 天皇が東条に、避戦への取りまとめを期待してゲタを預け、東条が海軍が賛成しなければ開戦できないと言っている以上、海相の選任とその決意が、和戦の鍵となったわけだ。

 

 太平洋戦争の開戦問題は、外交問題とともに内政問題となるのだが、どちらかと言えば内政問題の比重の方が大きいのである。

 

 

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