海軍 ―「ミッドウエー海戦」:源田艦隊と黒島指令部

海軍―「ミッドウエー海戦」:源田艦隊と黒島指令部

吉田俊雄著:「戦争を動かした30人の提督」より。

 

 戦略の誤りを戦術で回復することは出来ない。

又、戦術の誤りを戦闘で回復することは出来ない。

 連合艦隊司令部、ないし軍令部が、あれほどまでに戦略的指導を誤ったからには、たとえ南雲部隊がまったく誤りのない戦闘指導をしたとしても、勝つことは無理だったろう。

 

 こんな話もある。

ミッドウエー空襲を翌朝に控えた6月4日夜、連合艦隊[大和]に乗艦していた敵信班(敵の通信状況を調査して参考にする)が、ミッドウエーの北方海面に、敵空母らしい呼び出符号(通信艦所の通信上の名前のような者、敵に傍受されていることは確かなので、何か大きな作戦を始める前、いっせいに変更した。

艦名と違って、呼び出し符号は何度も変える)を傍受した。

 

 その報告を聞いた山本長官は、注意した。

「この電報を、すぐ「赤城」(南雲部隊旗艦)に知らせたらどうか。」

佐々木参謀によると、長官の注意を受け、幕僚が集まって協議した。

すると、黒島先任参謀が口を挟んだ。

 

 「南雲部隊は、ミッドウエーの飛行機や敵の機動部隊がわが船団に向かって攻撃してくるのを、横から突こうとしているらしい。なかなか、うまいことをやる。」

 

又、通信参謀は、

「いま無線封止中ですから。だいたい南雲部隊は、連合艦隊より優秀な敵信班を持っています。しかも敵に近いから、当然「赤城」もこの電報をとっているでしょう。

 特に、知らせる必要はないでしょう。」

 と反対。

結局、その旨を長官に報告し電報は打たないことにしたという。

 

 実は、この電報は南雲部隊は受信していなかった。

山本長官がピンと来た重要な注意を無線封止中だとか、何とか言い、戦艦「大和」の出撃を敵に知られないための、いわゆる保身策から潰してしまった。

 

これを知らせていたら、南雲部隊は敵空母の出現を知ることが出来たはずだ。

 

 もう一つは、空襲当日の朝。

早朝から南雲部隊の通信に注意していた「大和」では、ミッドウエー攻撃隊指揮官機から「赤城」に宛てた電報を傍受。

 

攻撃効果が不十分なこと、策敵機が敵水上部隊を発見したこと、つづいて敵空母一隻を発見したことを知った。

 

ただし、南雲部隊が敵機の攻撃を受けていること、敵空母を攻撃するため、攻撃機の兵装を爆弾から魚雷に積み替えていたことは、何の知らせもなかった。

 

 空母発見を知った山本長官は、

「どうだ、すぐやれといわんでもいいか」と黒島参謀に注意した。

黒島は、

「搭載機の半数を艦船攻撃に備えて待機するよう指導してあります。今更、言わないでもいいと思います。」と進言した。

 

 山本長官は、それでも不安を感じたようで、こんどは佐々木航空参謀に呼びかけた。

「攻撃部隊は、すぐ攻撃するか。」佐々木参謀によると、こう答えたという。

「機動部隊の命令に、半兵力は敵艦隊に備えていることになっていますから、心配ありません。」

 

 この時、南雲部隊は、前記兵装転換のため、攻撃準備は進んでいなかった。

その約1時間後、ようやく敵機動部隊を攻撃撃滅することを決意し、山本長官に報告したのが実際だった。

 

 何故この時、2度にわたり、黒島参謀は山本長官の注意に、異を立てたのだろう。

そして、異を立てられた山本長官は、其のたびに不興げな表情を見せながら、何故、黙ってしまったのか。

 

 又、出撃の前、南雲部隊の草鹿参謀長から、「赤城」はアンテナが低く、通信能力が劣るので、

 「重要な作戦転換は、連合艦隊から知らせてもらいたい。」

と申し出があり、ではそうしようと宇垣参謀長は約束した。

にもかかわらず、宇垣までがこの件で黙っていた。なぜか。

  

連合艦隊司令部は、いったい、どうなっていたのか。

山本長官が、作戦は幕僚に委ねていたことは前にも述べた。

しかし、「委ねる」ということは、このようなものか。

 

 例えば、南雲長官は、作戦は航空参謀源田実中佐に任せ、口の悪い部内の士官たちに、

「あれは南雲部隊ではない。源田艦隊だ」

と言わせた。

だとすれば、同じような考えで、連合艦隊司令部は「山本司令部」ではなく、実質は「黒島司令部」だったのか。

 

 

しかも、その黒島参謀は、ほんとうに能力を発揮して長官の期待に応えたのは、敵が備えていなかった緒戦、つまり、開戦当初の、真珠湾を含む一方的な諸作戦まで出、その後は強度の自己過信に陥ち、平衡感覚を忘れたように見えた。

 

ガダルカナル攻防戦のときも自己過大評価、敵過小評価がつづき、真実が見えにくくなっているようだった

 

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 以上、吉田俊雄著「戦争を動かした30人の提督」光人社NF文庫より。2001年8月発行。

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 山本長官は、統帥は立派だったが作戦は駄目だったということになる。

確かに、長官は、人情家であり自分の好んだ人間に任せてしまうことがあった。

しかし、任せるということは、問題がある時にチエックしなければならない。

 

 この時、長官は参謀に問いかけているが、この場合は命令しなければならなかった。

これは、日本の運命がかかっていた作戦であった。

情に流されるのではなく合理的に処理して指揮官は責任を持って命令する必要があった。

 

 山本長官の戦略家としての功績については、誰も文句を言えない。

しかし、彼は秀才であったが人の好き嫌いが激しかった。

又、寡黙であった。

海軍は、沈黙の海軍と呼ばれるように多言より実行を尊ぶようにしつけられていた。

 

 しかし、組織で戦うのだから関係者で十分に話し合って理解する必要があった。

連合艦隊の司令部は、コミュニケーションが不足していた。

また、連合艦隊と軍令部のコミュニケーションも十分にとっておく必要があった。

 

長官が、南雲艦隊に目的を作戦を詳しく話し、理解させて十分な情報を与えていればこの海戦は、負けることはあり得なかった。

 

この欠点は、戦後、日本海軍の特質についてアメリカ海軍から伝えられた評言によく表れていた。

「日本海軍で一番立派だったのは、下士官だった。次が兵と若い士官。上級指揮官と参謀が一番良くなかった。」

 

一方、アメリカの著名な歴史家、S,E.モリソン教授(ハーバード大学)は、

大著「太平洋戦争アメリカ海軍作戦史」の序文において、次のように評している。

「アメリカは、未だかって日本帝国海軍より以上に頑強でより以上に訓練され、もしくはより以上に強力な戦闘部隊と戦ったことはなかった。」と賞讃されてもいる。・・・・・

 

日本海軍は、月月火水木金金といわれたように猛訓練に明け暮れてイザという時に備えていたが指揮官と参謀は士官学校の卒業年次の順番によって艦隊長官や艦長や参謀長や参謀の任務を決めていた。

 

平和時においては、誰でも出来るようにしておいたことはそれでもよかったとしても、戦時の指揮官は、適材によって任務を決める必要があった。

 

例えば、南雲中将は、海兵36期で水雷屋であったが、若い時は、勇猛な駆逐艦艦長として活躍していたが、航空については素人であり、この時老いていた(55歳)と言われている。

 

 例えば、ミッドウエーで空母飛龍艦長で「直ちに攻撃の用有りと認む」と南雲司令長官に進言して最後に生き残った飛龍の艦爆機を発進させて敵空母を一隻撃沈して飛龍と運命を共にした山口多聞少将などを機動部隊司令長官に起用しても良かったわけである。

 

 何も嫌がる人を任命しなくても良かったわけで戦時は、猛将でなければならない。

米国は、キンメル将軍を解任して猛将ハルゼーに変えた。

偶然にもミッドウエー海戦の時、ハルゼーは腹痛になり入院していた。

代わりに起用したスプルーアンス少将は、ミッドウエー島の東側に隠れ密かに南雲部隊が一次攻撃から二次攻撃に移る時の攻撃機発進を狙っていた。

 

ハルゼーなら、隠れないで直ちに、猛然と攻撃しただろうから日本側も気付いて空母同士の戦いになっただろうという話もある。

しかし、スプルーアンスのお陰で米国機動部隊が勝利することが出来た。

 

日本海軍は、人事と教育で失敗したと言える。

著者の、吉田俊雄氏は、海兵59期、海大卒で、海軍の中枢部にいた人であり良く海軍内の事情を知っており、又、戦後、海軍の先輩や友人や後輩を訪ねて色々な話を聞いている。

 

そして日本海軍の真実の姿を後世のために著述して日本国民に知らせたくれた。

著者は、海軍を愛していた。

海軍が戦争せずに艦が沈まずに残っていたらと万感の思いを抱いておられたのだろうと思う。

 

 

 

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