海軍: 吉田俊雄著「戦争を動かした30人の提督たち」。

 海軍: 吉田俊雄著「戦争を動かした30人の提督たち」。

 

 広島湾内。江田島の別天地。海軍兵学校がある。

 

 旧制中学卒業の学力を持つものが規格だから、18歳から19歳(中には17歳もいた)で入校。

海軍兵学校生徒になり、3年ないし3年8ヶ月の間、ここで全寮生活を送った。

 

当時の時代相から生徒達(1学年から3学年生。時には4学年生がいることもあった)がどれほど懸命な努力をして、この間の勉強と猛訓練を乗り越えて行ったか、涙ぐましいものさえあった。

 

ところがその兵学校を海軍は、また別の面で注視していた。

海軍士官の一生の内、兵学校ほど一クラス全員が同じ条件で、一箇所に集まり、生活しながら勉学、訓練する機会はほかにない。

 

 観察者の目を増やし、あらゆる機会をとらえて四方八方から注視すれば、彼らの才能だけでなく、一人一人の人間性、人格までを評価することが出来る。

 

だから兵学校には、教官の数が実に多かった。

教官一人に生徒30人が普通。

教官のカケモチはなかったから、生徒はずいぶん多くの目でチエックされていたことになる。

 

 学校の狙いは、こうして卒業までの間に一クラスの生徒を成績順(得点順)に一列に並べることにあった。

 

百人のクラスとすると、一番から百番まで一列に番号をつける。

同点の者が、例えば五人いたとしても,たとえば五十番が五人いることは許されない。

どんな無理をしても一列に並べなければならない。

 

これは戦争前の話だが、前にも述べたように、兵学校は二、三十人に一人という狭き門だっただけに、一人二人の飛びぬけた秀才を別にすると後は殆ど差がない。

 

ことに軍事学(砲術、水雷術、通信術などなど)では、試験をすると八割以上が百点をとる。

 

 此れでは困る。

だから、それに普通学の、例えば数学、語学、精神科学を加え、体操体技や武道のほか、さらに一見つかみどころのない人格点を併せて差をつける。

 

「何だ。微積分のdy、dxがうまけりゃ、立派な指揮官になれるというのか」

私たちは、「海軍兵学校」だと言うのに、普通の高等学校のような課目を勉強させられるのが大不満だった。

 

 しかし、この普通学は人の教養を高めることのほかに、成績順に生徒を一列に並べるのに威力を発揮したのだ。

 

生徒達を試験の点数順に一列に並べると結局は、記憶力、表現力のいい、いわゆる学校秀才としての成績順になった。

 

海軍は、シンから「秀才信仰」で、一クラスの人数の多寡にもよるが、一番(首席、クラスヘッドと称した)から四、五番くらいまでで卒業した者を貴重品扱いにした。

 

 首席は、特別のことがないかぎり、クラスヘッドの位置を動かさない。

進級も配員も昇給もいつもクラスのトップを切る。

 

二番から四、五番くらいの者を「特進組」、または「特急組」と俗称したが、かれらはいつもそのクラスの者たちの一年前を走っていた。

 

みんなが中佐になる一年前に彼らは中佐になる。

クラスの者が海軍大学校に入る、その一年前に大学校の学生を命じられる。

 

 さてその人事だが。

人事のことは、そう印で押したようにはいかない。

しかし、そのような「特進組」-将来、海軍の経営に当たるべきエリートたちは、海軍から特別な庇護を受ける。

 

 色々特権を与えられながら。

「計画人事」によって、先々中央の重要なポストにつくのに必要な教育を受け、体験を積まされ、其の実現に向け大股で階段を登っていく。

 

だから、この「特撰組」―「特権組」は、一般士官とは海軍での役割が違う.そう考えたほうがわかりやすい。

適切でもある。逆に「特撰組」-「特権組)自身の立場でいうと、

 

「日の当たるところを通って、大将,中将にまで出世するパスポートを与えられた」ことになる。

また、「大過なく勤めさえすれば、大将、中将まで昇進することを海軍から保証された」

ことにもなった。

こうして極言すれば、

 

「冒険を避け、出来る限り動かず、慎重消極的に、石橋を叩いて渡る。極力、責任を負わずにすむよう知恵を絞る」

 のがこの人たちの生活信条になりやすいのはやむをえなかった。

 

下世話にいう、「見てくれはいいが腰が引けている」のである。

 しかも、この「特撰組」が海軍の「計画」どおり困ったことに中央の要所要所をすっかり埋めていたのだ。

 

 さらに言えば、この「見てくれはいいが腰が引けている」人たちが、満州事変、国連脱退、軍縮会議脱退、日独防共協定締結、日華事変、第二次世界大戦、北部仏印進駐、三国同盟調印、日蘭会商打ち切り(インドネシアから石油の入手出来なくなる)、独ソ開戦、南部仏印進駐、アメリカの対日資産凍結、石油禁輸(石油が海外から一滴も買えなくなる)。

 

そして急転、戦争突入、三年八ヶ月にわたり、米英仏中ソを相手に戦い、国民が餓死寸前になるまでに追い込まれ、降伏敗戦にいたるまで、政策協定、戦争指導、作戦指導の当事者となっていた。

 

 陸軍の圧倒的な政治力を撥ね返すなど、とんでもなかった。

ズズンと押され押しまくられては、「腰が引けた」姿勢の中央エリートには食い止められなかった。・・・・・・・

 

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以上、吉田俊雄著「戦争を動かした30人の提督たち」。

光人社NF文庫。2001年8月発行、より抜粋。

 

著者:明治42年、佐世保に生まれる。昭和2年、海軍兵学校に入学、第59期。

海軍大学校選科学生。蘭領東印度出張。米内光政、嶋田繁太郎、永野修身らの副官を勤める。

日米開戦前より軍令部第三部勤務、昭和18年より軍令部員・大本営海軍参謀。終戦時は中佐。

主な著書。「連合艦隊」「四人の連合艦隊指令長官」「五人の海軍大臣」他多数。

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 著者の吉田俊雄氏は、海兵、海大を卒業して海軍の中央部におり、軍令部長や海軍大臣の副官を勤めておられた方で海軍中央において開戦に事情、戦争指導、作戦、提督や参謀の人物の事情を知りえた方であり、その情報や貴重な体験をもとにして海軍の滅亡の原因を考えて敗北の教訓を後世に残そうとされた。

 

戦後の我々日本人は、其の教訓から学び反省して国の復興に生かさねばならなかった。

その教訓とは、海軍組織の指導者の教育内容と組織の人事において提督や参謀の配置を卒業年次や成績で行ったこと、先任後任を重んじた人事が間違っていた。

 

 戦時での海軍人事で、指揮官や参謀の異動は実力主義で最適な人物を卒業年次や先任を飛び越えて抜擢する必要があった。

 

 このことは、現在の日本の官僚組織にも当てはまるのではないか。

 

日本が初めて航空機を兵力として使い成功したが軍中央部指導者は依然として大艦巨砲主義を信奉して艦隊決戦で勝敗を決しようとしていた。

 

海軍大学での教育は、艦隊決戦を兵棋演習や図上演習で確かめる兵術偏重の教育であった。

 

 だから、中央部の戦争指導は、艦隊決戦に拘り兵器が航空機に移ったことを認識出来なかった。

 

 そして他にも情報や兵站軽視の敗北の原因あるけれども大日本帝国の大敗北と滅亡を招き連合軍の占領を許すことになってしまった。

 

 そしてその占領政策により、多くの国民が自虐史観に洗脳されて民族の誇りを失ってしまった。

 

また、米国、ソ連の左翼スタッフにより共産主義イデオロギーが奨励されて日本の共産主義者が大手を振って大学などの高等教育機関などに採用されマルクス主義が盛んに教育されその卒業生が地方大学や高校に採用されて左翼青年たちが増加していったのである。

 

 戦後、国民は海軍や陸軍の教育がペーパーテストによる成績第一主義によって失敗したことを反省しそれを生かして来たのだろうか。

 

教育は、国家の根本である。教育の方法や内要を間違えてはいなかったか。

 

 講和条約後の日本の教育を改める必要があったのに愛国心の養成や正しい歴史教育を怠ってきたのではないだろうか。

 

 そうでなければどうして自虐史観の国民が多いのか。

日本を誇りに思う国民が少ないのか。説明が出来ない。

 

 今、現在の日本は、正しい情報がマスメデアによって握りつぶされている。

まるで戦時中、海軍が負けた情報を隠したことと同じである。

 

 情報の操作は、敗戦の重大な教訓であった。

今やインターネットによってしか真実の情報がつかめない状況である。

 

メデアが海軍の悪い面を真似している。

だから、メデアの謝った情報を信じて騙された多くの国民に正しい情報を知らせ伝えていかなければならない。

 

そうでなければ、情報戦争に敗北し支那と朝鮮の属国になるだろう。

 

我々は、世界一流の海軍を建設した国民である。

国運が我にあらず、敗れたとはいえ支那王朝の冊封体制に入る民族ではない。

 

 我々は、誇り高き民族であり国民が一丸になったら軍備を整え武威を基に世界に正義をうち立て日本文化を広めることが出来る。

 

 そうでなければ、大東亜戦争で勇敢に戦った我々の祖先に申し訳ないと思う。

 

 

 

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