海軍 : 吉田俊雄著「海軍参謀」

     海軍 ―  吉田俊雄著「海軍参謀」

 

 

海軍には参謀を養成する特別な機関はなかった。

 

 海軍大学校の教育は、「・・・・海軍将校ニ高等ノ兵術ヲ教授スル所トス」とあって、将官になるための登竜門であり、陸軍大学校のように参謀を養成するところではない。

 

 海軍兵学校を四、五番以内で卒業したクラスの「特進組」は、受験資格がついたら計画人事によりクラスヘッドとともに、大学校の入学試験を受けさせた。

  志願である。               (省略)

 入学試験は、ペーパーテストが砲術、水雷術などの術科についての問題と戦略戦術と理念・精神についての問題、それに外国語。

 

 次にペーパーテストの合格者を東京に集め、三日間にわたって口頭試問が行われた。

 

 わざわざ落とし穴を用意した、意地の悪い質問もあった。

千軍万馬といっていいはずの海軍少佐がたたみかけられて卒倒した話さえある。

 (省略)

海軍大学校でどんな高等の兵術を教授したのか。

 

まず「平時」と呼ぶことのできる大正15年から昭和3年にかけて在学した甲種学生第二十六期のときのデータである。(全授業時間に対する百分比)。

 

統帥 0.5 、 戦略 20 、戦術 29、 戦務 10.7、 戦史 12.2

 軍政 13.2  一般(語学・講演など)14 。

  (省略)

 

さきほどの科目と時間数の全体に対する百分比を少し違った分け方をして見直すとよくわかる。

 

 「統帥、戦略、戦術、戦務、戦史・・・いわゆる戦争をするための高等の兵術総合 72.8」

 「もう一歩踏み込んだ戦争屋の腕磨きに当たるもの・・・戦略戦術,戦務の総合   60.0」

 「戦略戦術-海上戦闘指揮技術の練磨、主として兵棋演習、図上演習による・・   49.3」

 

 こうして見ただけでも教育内容が兵術―それも艦隊決戦に偏り、この2年間で徹底的に戦うことに集中洗脳された。

それも広義でなく狭義の戦い、しかも技術、テクニックについての勉強である。

 

 それより幅広い国家とか、世界史の中での興亡とかそんな歴史的、哲学的なビジョンを顧みない。

 

 戦場で敵主力部隊に向かって駆逐艦部隊をどんな時期、どのような形をとって突撃させたらよいか。

 

 次から次へと場面が考えられ問題が出て来る。

それを研究し議論し、図上演習や兵棋演習でシュミレートしてみて更に練り直し、大演習や小演習で実際に連合艦隊を使ってやってみる。

 

そうするうちに、新兵器が採用され遠いところから射てる魚雷や大砲が使えるようになって、それまでの研究を又最初からやり直す。

 

もし又外国、とくに仮想敵国に新しい艦隊兵器の出現が報じられると、一工夫も二工夫もしなければならず又忙しくなる。

 

とにかく気の休まるヒマがないのだ。

落ち着いて勉強するなど、していられない。

益々技術にテクニックに偏っていくばかりである。

 (其の術科教程は、大尉のときにすでに皆履修をすませている)。

 

 ではどうすればよかったか。

第一に、官制の第一条を「高等ノ兵術ヲ教授スルトコロトス」ではなくせめて、

 

「高等ノ兵学ヲ教授スルトコロトス」と改めるとよかった。

 

「用兵と戦闘についての根本原理を追求する」ことを目的にするならば、おのずから偏りが消え国にも国民にもまた歴史にも哲学にも考え及ぶことができたろう。

 

 しかし、日露戦争の大勝利があまりにも世界史の上に輝き過ぎていた。

当事者の日本海軍にすればそれはもう太陽であった。

 

 日清、日露戦争は艦隊決戦で勝った。

日米戦争も艦隊決戦で勝つべきであり、それ以外一切考えてはならないとした。

 戦争には国の運命はかかっている。

それを軍人が担っている以上、これで勝てると答えの出ている方法以外はとるべきでない。

 

 嶋田源太郎大臣は、軍令部作戦課から出されていた参謀増員の要求を一言のもとにかたづけた。

 「それはいけない。昔のままでなければいけない」

 

 海軍大学校のカリキュラムを改め、戦争を『戦う技術』への偏向から『戦わない戦術』- 作戦研究から戦争研究にシフトすることは、どこから見ても至難のわざだった。・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 ここまで 吉田俊雄「海軍参謀」1992年11月。文春文庫より抜粋、転記。

  参考図書:吉田俊雄著「指揮官と参謀」光人社NF文庫。1993年10月発行。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

人の運命、国の運命はわからない。

歴史から見るとあまりにも日本海軍や大日本帝国に運命の女神が味方しなかった。

 

例えば、あれほど戦争に反対して米国と戦えば勝ち目はないと言っていた山本海軍次官

を暗殺の危険からしばらくの間、海上に避難させるため米内海軍大臣は、連合艦隊司令長官に任命した。

しかし、時局があまりにも早く移り対米戦争が始まってしまった。

 

この時、戦時の司令長官を交代せずに永野軍令部総長は、山本にそのまま任せた。

山本は勝てない戦争と思っていた米国に勝つ任務を任されてしまった。

 

もし、このときの司令長官が交代していたら恐らく艦隊決戦を望んだであろう。

日本海軍は、西太平洋で米国海軍と一大決戦を行うのが当時の戦略だったからである。

 

 米国海軍のオレンジ計画も西太平洋とフイリピンまで戦艦部隊を繰り出し決戦を行う計画であった。

だから太平洋の戦いは歴史と違った戦いになったであろう。

 

 米国海軍に勝つ任務を負わされた山本長官は、連合艦隊の演習で空母による真珠湾攻撃を思い立つ。

それから9ヶ月、軍令部の反対を受けつつ艦載機の訓練を始めた。

 

日本海軍は開戦劈頭、真珠湾の米国戦艦を殆ど沈めた。

しかし、米国にとって国民の目の前で撃沈された戦艦の姿は、米国民の奮起を促し米国海軍の闘志を掻き立てた。

 

 それから2日後、山本が訓練してマレー半島に送っていた基地攻撃の爆撃機部隊が英国最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエールズとレパルスを沈めてしまった。

 

このことにより、米国海軍は日本海軍以上に艦隊巨砲主義であったにも拘わらず飛行機が戦艦を撃沈出来ることがわかりそれを主要兵器として認め、飛行機と空母の製造と搭乗員の訓練を始めた。

 

日本海軍が、飛行機が次の海の戦いの主役だということを世界に示し教えたのである。

 

 皮肉なことに、肝心な日本海軍中枢部は、あまりにも艦隊決戦,大艦巨砲主義に洗脳されていたためすぐには思想転換ができなかった。

 

アメリカ人は現実主義者なのでたちまち飛行機の有効性を見通し兵器として運用することに決めた。

 

開戦後、しばらくの間、日本の飛行機製造は、まだ手作業の段階であり本格的な大量生産を始めていなかった。

搭乗員の大量養成も始まっていなかった。

 

 日本海軍と日本にとって悲劇であった。

大東亜戦争は、海軍の戦争であったから日本海軍が負ければ日本の敗戦は必死であった。

 

運命は皮肉であり戦争の女神はアメリカに微笑んだのであった。

 

コメントを残す

サブコンテンツ

ブログの殿堂

ブログランキング

ブログ王

ブログ王ランキングに参加中! カテゴリー:芸術と人文/歴史

i2i

サイト内ランキング



フラッシュカウンター


忍者画像人気記事


このページの先頭へ