陸軍: 大東亜戦争 大敗北の原因と持久戦
陸軍: 大東亜戦争 大敗北の原因と持久戦
1.陸軍が対英米戦について十分研究していなかった。
a. 陸軍はソ連との戦争に備え関特演を実施して研究していた。
しかし、対英米戦争で島嶼防御戦と島嶼攻撃戦の研究や武器の研究がおろそかであった。
島嶼に進攻してくる米軍に対して自動小銃もなく対戦車砲(バズーカ砲のような兵器)や小型砲などなかった。
移動の難しい関東軍で使用していた大型大砲は運搬に苦労して苦戦した。
水際で銃剣突撃で多くの将兵が玉砕した。
彼らに有効な武器や食料や医薬品が十分与えられていれば善戦することができた。
殆どの島に投入した陸軍兵力は到着時期が遅く、陣地構成に十分な期間がなかった。
また、武器、弾薬、食料、医薬品を乗せた輸送船は島に到着する前に沈められ助かった将兵は武器もない者が多かった。
b. 陸軍は精神力を強調し武器の研究、配備を怠った。
合理的精神が欠けてそれを精神力で補おうとした。
第一次大戦の欧州戦線に陸軍の派遣をしなかった事が影響した。
開戦派の東條内閣が出来たが東條は、精神主義で合理的思考が出来なかった人物であった。
従って武器の研究、配備を怠り、将兵は十分な武器もなく夜間の切り込みに頼る戦法を多用した。
日本でも原子爆弾を研究し、仁科博士たちはタイに行き、ウラン鉱区を調べていたが、博士たちは東條に原爆を進言したら難しい話しを聞く暇がなく忙しいと断られた。
c. 東條内閣の成立(不適任内閣)
開戦論者の東條が首相になったことによって日本国内、国外世論とも一気に開戦の意志と受け取った。
近衛も東條も次期首相には東久邇稔彦王を押したが、内大臣木戸幸一の反対によって阻止された。
木戸内大臣が「皇族の指導によって政治、軍事指導が行われたとして万が一にも失政があった場合、国民の恨みが皇族に向くのは好ましくない」として反対した。
重臣会議で強硬論を主張する東條こそ逆説的に軍部を抑えられるという木戸の意見が通り東條が組閣することになった。
木戸は天皇に「東條は最近考えが代わり柔軟になっている」と言って騙した。
この木戸は、木戸孝允の実子ではなく養子であった。木戸は共産主義の影響を受けていたと言われる。
東久邇稔彦王内閣が出来ていたら開戦は回避されたか、開戦の次期はもっと後になっていたかもしれない。
d. 陸海軍の協同作戦や意志の疎通が十分でなかった。
海軍がガダルカナルに飛行場を設けたが米軍に奪回されてしまった。
陸軍は部隊を派遣したが海軍が武器、食料の輸送をあまり協力しなかったため不信感が生まれた。
陸軍にせっつかれて初めて検討した聯合艦隊司令部の参謀たちはガダルカナルがどこにあるか知らなかったそうだ。
ガダルカナルへの物資輸送は、黒島先任参謀らが計画したがいつも艦隊は小出しであり大部隊で輸送や米軍攻撃をすることがなかった。
米軍は空母を伴う戦艦部隊で待受けそのためいつも日本側の被害が多かった。
勿論、海軍の暗号は解読されており、米軍はいつも進攻する日本軍を待ち受けていた。
しかし、陸軍の暗号はついに解読されることがなかった。
日本海軍の暗号は戦艦、空母、潜水艦に至るまで全て同じ暗号が使われていた。
米軍は最初の戦いのツラギ島攻撃戦で日本の小型艦艇の中にあった暗号表を発見してミッドウエー作戦の頃の暗号は解読されていた。
山本長官機の撃墜は暗号を解読した米軍の暗殺であった。
日本海軍は暗号解読について終戦まで疑うことがなかった。
「持久戦に持込み休戦になった可能性について」
1.連合艦隊司令長官人事
連合艦隊指令長官は山本長官以外なら誰でも良かった。
嶋田源太郎、小沢治三郎、山口多聞など海で暮らした船乗り提督が沢山居た。
彼らが司令長官になっていたら、日本海軍の伝統である日本近海での決戦を考えたであろう。
恐らく航空機援護の基に艦隊決戦が起きたであろう。
また、司令長官自ら旗艦に乗り先頭に立って指揮したであろう。
また、中央の軍令部の支持を守り、国防圏内で戦ったと思われる。
山本長官は自身にあふれ自分以外の者の意見を聞こうとしなかったのであり、また
山本長官は、海外勤務が長く、提督よりも軍政に向いていた。
2.東久邇稔彦内閣が成立した場合
この内閣では、英米戦回避の努力を続ける。
ハル・ノートの内容を世界へ発信する。
米国の世論はこのような通告は日本の指導者が戦争を決意するだろうと米国政府を非難するだろう。
大本営に陸軍・海軍統合参謀部を設置し、天皇の統帥を輔弼する。
この統合参謀部長に石原莞爾を任命して、日本の政治、軍事の戦略を検討させる。
石原莞爾は軍事の天才であった。
彼は「世界最終戦争」という著書を出している。
合理的で先の見える傑出した天才軍人であった。
しかし、東條と石原は仲が悪く東條は、石原の動きを憲兵に監視させ戦争前に予備役に編入してしまった。
石原の統合参謀部では、外交による戦争の回避の駆け引きを行い、やむ負えない戦争になった場合の陸軍、海軍の戦略。陸軍・海軍の協同作戦を考えたであろう。
満州などの石油の採掘。原子爆弾の開発。ロケットの開発など重要な案件を検討する。
新兵器の開発では、レーダー、重戦車、対戦車砲、自動小銃、ロケット砲、艦艇の対航空機防御。潜水艦探知法と攻撃方法。
機動部隊の編成。輸送船防御の護送船団方式。パイロット養成。航空機の陸海統一の大量生産法。潜水艦部隊の増強。
その他、持久戦争完遂のためのあらゆる手段の検討など。
日本の潜水艦部隊は、敵の空母や戦艦を沈める任務を任されたが、敵部隊に近づくため駆逐艦の餌食になり沈没する潜水艦が多かった。
また、ガダルカナルでは、物資の輸送を担当させられ犠牲になる艦が多かった。
潜水艦部隊の隊長たちは、軍令部に敵の輸送船攻撃を願い出たが採用されなかった。
米軍の補給線は、パナマ運河より南米大陸の西海岸に沿ってニュージーランドに向かうコースであった。
このコースで日本の潜水艦が米軍輸送船を沈めたのはたった1隻であった。
米軍は警戒していたが日本の潜水艦が攻撃しないので不思議がった。
もし、石原莞爾ならば潜水艦部隊を増強して、米軍輸送船を攻撃するように命じたであろう。
そうなれば、米軍が兵員、武器、食料、医薬品などをオーストラリアへの輸送量が減り、米軍の反抗作戦に支障を来して遅れたであろう。
日本は持久戦に備え準備をする時間を稼げた筈である。
3.太平洋海戦の戦略
a. 開戦前の日本の基本戦略は、蘭領東インドの攻略とシンガポール要塞の攻略であった。
従って一つはフィリピンを攻撃せず南支那海を素通りして蘭領東インドを攻略して石油を確保する案であり、この案を実施した場合、英米は対独戦で余裕がないのでオランダを援助しない可能性があった。(これは戦後英米首脳が語っている。)
もう一つは、フィリピン沖を通過した時、米軍から攻撃を受けた場合、宣戦布告してフィリピン占領とシンガポール攻略戦を行うことであった。
当時、ドイツは北アフリカ戦線でロンメル将軍が戦っており、日本海軍がインド洋に進出して陸軍を海上から応援して日本陸軍部隊がビルマ、インドを占領してドイツ軍と地中海で落ち合おうとヒットラーに催促されていたのでその案も可能であった。
b. 日本の絶対国防圏は、マリアナ諸島、トラック諸島、パラオ諸島、フィリピン諸島でその奥の台湾や沖縄諸島に縦陣に陣地を建設する。
西はシンガポール、ボルネオ、東インドであり、縦横な陣地構築と各諸島間の相互防衛を構築すれば良かった。
最前線の防衛ラインは、マーシャル諸島、ソロモン諸島、ビスマーク諸島、カロリン諸島、ニューギニアであり、消耗戦を回避して適当な所で絶対国防圏に後退して米海軍を邀撃する。
c. 石油などの戦略物資の輸送
東インドやマレー半島からの物資輸送は、駆逐艦や巡洋艦を主力とする輸送船団方式で行う。海軍はもっと船団輸送護衛に力を注ぐ。
4.持久戦と休戦講和の工作
日本が持久戦を続け太平洋を北上する米軍に損害を与え続ければ米兵の戦死を恐れる米国民も悲鳴をあげ平和を望み始める。
米軍が日本の島嶼守備隊を攻撃している時に、日本の残存艦隊や航空機が攻撃を加えればかなりの戦果を上げるだろう。
日本海軍が如何に残存艦隊を温存するかが鍵になる。
対独戦が終わると米国民は平和を望むようになる。
ヨーロッパの戦いが終了しても太平洋の戦いは何時終わるかもわからない。
日増しに米兵の損害が増える。
真珠湾攻撃などの騙し討ちを行ったわけではないので、米国民は日本人に恨みを抱いておらず日本と望んだ戦争をしているわけでない。
ルーズベルト大統領は、国民に第二次世界大戦に参戦しないと約束した筈である。
これは約束違反であるという世論が強くなる。
日本は、ハル・ノートを全世界に公表し、アメリカがこのような理不尽な要求を突きつけたから日本は自衛のための戦争を選んだとプロパガンダを流す。
昭和20年頃にはアメリカが原子爆弾を開発したことは、日本は陸軍の諜報網で知っていた。
日本も原爆の開発を急いでいたが、アメリカが日本に原爆を使用したいとしてもサイパン島が手に入れていない現状ではB29の航続距離からいっても原爆を運搬出来ない。
中国本土の飛行場を使用する手もあるが日本軍が警戒しているため無理であった。
日本はラジオ放送でアメリカが新型爆弾を使用するなら日本もアメリカ本土で原爆を使用すると声明を出す。
日本の潜水艦部隊に原爆を積んだ戦艦などが米本土から回航するのを見張り撃沈する命令を出す。
ソ連が満州に参戦しても関東軍が強力な陣地を構築していて野砲、戦車、戦闘機などを有する無敵関東軍がソ連侵入部隊を撃滅して撤退させることが出来ただろう。
かくて昭和21年~22年頃になり米国民世論が休戦、講和を望むようになり、大東亜戦争は終わった。
このようなシナリオが考えられないわけではない。
ただ、現実はあまりにも日本に不運な経過をたどり大敗北になったことは残念である。
日本国民は、連合軍にこっぴどくやられたために自信を失って自虐史観に陥っている。
しかし、一度だけの不運な戦争を反省し教訓を得て再び国家再興をせねばやがて支那や朝鮮の属国になるであろう。
日本国民はもう一度自信を取り戻し、栄光ある大日本皇国を再興する責務がある。
日本人はアジアの盟主として天皇の御稜威の基にアジアに平和を打ち立てる責任がある民族なのである。
2.陸軍が対英米戦について十分研究していなかった。
- 陸軍はソ連との戦争に備え関特演を実施して研究していた。しかし、対英米戦争で島嶼防御戦と島嶼攻撃戦の研究や武器の研究がおろそかであった。
島嶼に進攻してくる米軍に対して自動小銃もなく対戦車砲(バズーカ砲のような兵器)や小型砲などなかった。移動の難しい関東軍で使用していた大型大砲は運搬に苦労して苦戦した。水際で銃剣突撃で多くの将兵が玉砕した。
彼らに有効な武器や食料や医薬品が十分与えられていれば善戦することができた。
殆どの島に投入した陸軍兵力は到着時期が遅く、陣地構成に十分な期間がなかった。
また、武器、弾薬、食料、医薬品を乗せた輸送船は島に到着する前に沈められ助かった将兵は武器もない者が多かった。
- 陸軍は精神力を強調し武器の研究、配備を怠った。合理的精神が欠けてそれを精神力で補おうとした。第一次大戦の欧州戦線に陸軍の派遣をためらった事が影響した。
開戦派の東條内閣が出来たが東條は、精神主義で合理的思考が出来なかった人物であった。従って武器の研究、配備を怠り、将兵は十分な武器もなく夜間の切り込みに頼る戦法を多用した。
日本でも原子爆弾を研究し、仁科博士たちはタイに行き、ウラン鉱区を調べていたが、博士たちは東條に原爆を進言したら難しい話しを聞く暇がなく忙しいと断られた。
- 東條内閣の成立(不適任内閣)
- 第三次近衛内閣は3ヶ月で瓦解した。
開戦論者の東條が首相になったことによって日本国内、国外世論とも一気に開戦の意志と受け取った。
近衛も東條も次期首相には東久邇稔彦王を押したが、内大臣木戸幸一の反対によって阻止された。
木戸内大臣が「皇族の指導によって政治、軍事指導が行われたとして万が一にも失政があった場合、国民の恨みが皇族に向くのは好ましくない」として反対した。
重臣会議で強硬論を主張する東條こそ逆説的に軍部を抑えられるという木戸の意見が通り東條が組閣することになった。
木戸は天皇に「東條は最近考えが代わり柔軟になっている」と言って騙した。
この木戸は、木戸孝允の実子ではなく養子であった。木戸は共産主義の影響を受けていたと言われる。
東久邇稔彦王内閣が出来ていたら開戦は回避されたか、開戦の次期はもっと後になっていたかもしれない。
- 陸海軍の協同作戦や意志の疎通が十分でなかった。
海軍がガダルカナルに飛行場を設けたが米軍に奪回されてしまった。陸軍は部隊を派遣したが海軍が武器、食料の輸送をあまり協力しなかったため不信感が生まれた。
陸軍にせっつかれて初めて検討した聯合艦隊司令部の参謀たちはガダルカナルがどこにあるか知らなかったそうだ。
ガダルカナルへの物資輸送は、黒島先任参謀らが計画したがいつも艦隊は小出しであり大部隊で輸送や米軍攻撃をすることがなかった。
米軍は空母を伴う戦艦部隊で待受けそのためいつも日本側の被害が多かった。
勿論、海軍の暗号は解読されており、米軍はいつも進攻する日本軍を待ち受けていた。しかし、陸軍の暗号はついに解読されることがなかった。
日本海軍の暗号は戦艦、空母、潜水艦に至るまで全て同じ暗号が使われていた。
米軍は最初の戦いのツラギ島攻撃戦で日本の小型艦艇の中にあった暗号表を発見してミッドウエー作戦の頃の暗号は解読されていた。
山本長官機の撃墜は暗号を解読した米軍の暗殺であった。日本海軍は暗号解読について終戦まで疑うことがなかった。
「持久戦に持込み休戦になった可能性について」
1.連合艦隊司令長官人事
連合艦隊指令長官は山本長官以外なら誰でも良かった。嶋田源太郎、小沢治三郎、山口多聞など海で暮らした船乗り提督が沢山居た。
彼らが司令長官になっていたら、日本海軍の伝統である日本近海での決戦を考えたであろう。恐らく航空機援護の基に艦隊決戦が起きたであろう。
また、司令長官自ら旗艦に乗り先頭に立って指揮したであろう。
また、中央の軍令部の支持を守り、国防圏内で戦ったと思われる。
山本長官は自身にあふれ自分以外の者の意見を聞こうとしなかったのであり、また
山本長官は、海外勤務が長く、提督よりも軍政に向いていた。
2.東久邇稔彦内閣が成立した場合
この内閣では、英米戦回避の努力を続ける。ハル・ノートの内容を世界へ発信する。
米国の世論はこのような通告は日本の指導者が戦争を決意するだろうと米国政府を非難するだろう。
大本営に陸軍・海軍統合参謀部を設置し、天皇の統帥を輔弼する。
この統合参謀部長に石原莞爾を任命して、日本の政治、軍事の戦略を検討させる。
石原莞爾は軍事の天才であった。彼は「世界最終戦争」という著書を出している。
合理的で先の見える傑出した天才軍人であった。しかし、東條と石原は仲が悪く東條は、石原の動きを憲兵に監視させ戦争前に予備役に編入してしまった。
石原の統合参謀部では、外交による戦争の回避の駆け引きを行い、やむ負えない戦争になった場合の陸軍、海軍の戦略。陸軍・海軍の協同作戦を考えたであろう。
満州などの石油の採掘。原子爆弾の開発。ロケットの開発など重要な案件を検討する。新兵器の開発では、レーダー、重戦車、対戦車砲、自動小銃、ロケット砲、艦艇の対航空機防御。潜水艦探知法と攻撃方法。
機動部隊の編成。輸送船防御の護送船団方式。パイロット養成。航空機の陸海統一の大量生産法。潜水艦部隊の増強。
その他、持久戦争完遂のためのあらゆる手段の検討など。
日本の潜水艦部隊は、敵の空母や戦艦を沈める任務を任されたが、敵部隊に近づくため駆逐艦の餌食になり沈没する潜水艦が多かった。また、ガダルカナルでは、物資の輸送を担当させられ犠牲になる艦が多かった。
潜水艦部隊の隊長たちは、軍令部に敵の輸送船攻撃を願い出たが採用されなかった。
米軍の補給線は、パナマ運河より南米大陸の西海岸に沿ってニュージーランドに向かうコースであった。このコースで日本の潜水艦が米軍輸送船を沈めたのはたった1隻であった。
米軍は警戒していたが日本の潜水艦が攻撃しないので不思議がった。
もし、石原莞爾ならば潜水艦部隊を増強して、米軍輸送船を攻撃するように命じたであろう。そうなれば、米軍が兵員、武器、食料、医薬品などをオーストラリアへの輸送量が減り、米軍の反抗作戦に支障を来して遅れたであろう。日本は持久戦に備え準備をする時間を稼げた筈である。
3.太平洋海戦の戦略
- 開戦前の日本の基本戦略は、蘭領東インドの攻略とシンガポール要塞の攻略であった。
従って一つはフィリピンを攻撃せず南支那海を素通りして蘭領東インドを攻略して石油を確保する案であり、この案を実施した場合、英米は対独戦で余裕がないのでオランダを援助しない可能性があった。(これは戦後英米首脳が語っている。)
もう一つは、フィリピン沖を通過した時、米軍から攻撃を受けた場合、宣戦布告してフィリピン占領とシンガポール攻略戦を行うことであった。
当時、ドイツは北アフリカ戦線でロンメル将軍が戦っており、日本海軍がインド洋に進出して陸軍を海上から応援して日本陸軍部隊がビルマ、インドを占領してドイツ軍と地中海で落ち合おうとヒットラーに催促されていたのでその案も可能であった。
- 日本の絶対国防圏は、マリアナ諸島、トラック諸島、パラオ諸島、フィリピン諸島でその奥の台湾や沖縄諸島に縦陣に陣地を建設する。
西はシンガポール、ボルネオ、東インドであり、縦横な陣地構築と各諸島間の相互防衛を構築すれば良かった。
最前線の防衛ラインは、マーシャル諸島、ソロモン諸島、ビスマーク諸島、カロリン諸島、ニューギニアであり、消耗戦を回避して適当な所で絶対国防圏に後退して米海軍を邀撃する。
- 石油などの戦略物資の輸送
東インドやマレー半島からの物資輸送は、駆逐艦や巡洋艦を主力とする輸送船団方式で行う。海軍はもっと船団輸送護衛に力を注ぐ。
4.持久戦と休戦講和の工作
日本が持久戦を続け太平洋を北上する米軍に損害を与え続ければ米兵の戦死を恐れる米国民も悲鳴をあげ平和を望み始める。米軍が日本の島嶼守備隊を攻撃している時に、日本の残存艦隊や航空機が攻撃を加えればかなりの戦果を上げるだろう。日本海軍が如何に残存艦隊を温存するかが鍵になる。
対独戦が終わると米国民は平和を望むようになる。ヨーロッパの戦いが終了しても太平洋の戦いは何時終わるかもわからない。日増しに米兵の損害が増える。
真珠湾攻撃などの騙し討ちを行ったわけではないので、米国民は日本人に恨みを抱いておらず日本と望んだ戦争をしているわけでない。
ルーズベルト大統領は、国民に第二次世界大戦に参戦しないと約束した筈である。これは約束違反であるという世論が強くなる。
日本は、ハル・ノートを全世界に公表し、アメリカがこのような理不尽な要求を突きつけたから日本は自衛のための戦争を選んだとプロパガンダを流す。
昭和20年頃にはアメリカが原子爆弾を開発したことは、日本は陸軍の諜報網で知っていた。
日本も原爆の開発を急いでいたが、アメリカが日本に原爆を使用したいとしてもサイパン島が手に入れていない現状ではB29の航続距離からいっても原爆を運搬出来ない。
中国本土の飛行場を使用する手もあるが日本軍が警戒しているため無理であった。
日本はラジオ放送でアメリカが新型爆弾を使用するなら日本もアメリカ本土で原爆を使用すると声明を出す。
日本の潜水艦部隊に原爆を積んだ戦艦などが米本土から回航するのを見張り撃沈する命令を出す。
ソ連が満州に参戦しても関東軍が強力な陣地を構築していて野砲、戦車、戦闘機などを有する無敵関東軍がソ連侵入部隊を撃滅して撤退させることが出来ただろう。
かくて昭和21年~22年頃になり米国民世論が休戦、講和を望むようになり、大東亜戦争は終わった。
このようなシナリオが考えられないわけではない。ただ、現実はあまりにも日本に不運な経過をたどり大敗北になったことは残念である。
日本国民は、連合軍にこっぴどくやられたために自信を失って自虐史観に陥っている。
しかし、一度だけの不運な戦争を反省し教訓を得て再び国家再興をせねばやがて支那や朝鮮の属国になるであろう。
日本国民はもう一度自信を取り戻し、栄光ある大日本皇国を再興する責務がある。日本人はアジアの盟主として天皇の御稜威の基にアジアに平和を打ち立てる責任がある民族なのである。
2.陸軍が対英米戦について十分研究していなかった。
- 陸軍はソ連との戦争に備え関特演を実施して研究していた。しかし、対英米戦争で島嶼防御戦と島嶼攻撃戦の研究や武器の研究がおろそかであった。
島嶼に進攻してくる米軍に対して自動小銃もなく対戦車砲(バズーカ砲のような兵器)や小型砲などなかった。移動の難しい関東軍で使用していた大型大砲は運搬に苦労して苦戦した。水際で銃剣突撃で多くの将兵が玉砕した。
彼らに有効な武器や食料や医薬品が十分与えられていれば善戦することができた。
殆どの島に投入した陸軍兵力は到着時期が遅く、陣地構成に十分な期間がなかった。
また、武器、弾薬、食料、医薬品を乗せた輸送船は島に到着する前に沈められ助かった将兵は武器もない者が多かった。
- 陸軍は精神力を強調し武器の研究、配備を怠った。合理的精神が欠けてそれを精神力で補おうとした。第一次大戦の欧州戦線に陸軍の派遣をためらった事が影響した。
開戦派の東條内閣が出来たが東條は、精神主義で合理的思考が出来なかった人物であった。従って武器の研究、配備を怠り、将兵は十分な武器もなく夜間の切り込みに頼る戦法を多用した。
日本でも原子爆弾を研究し、仁科博士たちはタイに行き、ウラン鉱区を調べていたが、博士たちは東條に原爆を進言したら難しい話しを聞く暇がなく忙しいと断られた。
- 東條内閣の成立(不適任内閣)
- 第三次近衛内閣は3ヶ月で瓦解した。
開戦論者の東條が首相になったことによって日本国内、国外世論とも一気に開戦の意志と受け取った。
近衛も東條も次期首相には東久邇稔彦王を押したが、内大臣木戸幸一の反対によって阻止された。
木戸内大臣が「皇族の指導によって政治、軍事指導が行われたとして万が一にも失政があった場合、国民の恨みが皇族に向くのは好ましくない」として反対した。
重臣会議で強硬論を主張する東條こそ逆説的に軍部を抑えられるという木戸の意見が通り東條が組閣することになった。
木戸は天皇に「東條は最近考えが代わり柔軟になっている」と言って騙した。
この木戸は、木戸孝允の実子ではなく養子であった。木戸は共産主義の影響を受けていたと言われる。
東久邇稔彦王内閣が出来ていたら開戦は回避されたか、開戦の次期はもっと後になっていたかもしれない。
- 陸海軍の協同作戦や意志の疎通が十分でなかった。
海軍がガダルカナルに飛行場を設けたが米軍に奪回されてしまった。陸軍は部隊を派遣したが海軍が武器、食料の輸送をあまり協力しなかったため不信感が生まれた。
陸軍にせっつかれて初めて検討した聯合艦隊司令部の参謀たちはガダルカナルがどこにあるか知らなかったそうだ。
ガダルカナルへの物資輸送は、黒島先任参謀らが計画したがいつも艦隊は小出しであり大部隊で輸送や米軍攻撃をすることがなかった。
米軍は空母を伴う戦艦部隊で待受けそのためいつも日本側の被害が多かった。
勿論、海軍の暗号は解読されており、米軍はいつも進攻する日本軍を待ち受けていた。しかし、陸軍の暗号はついに解読されることがなかった。
日本海軍の暗号は戦艦、空母、潜水艦に至るまで全て同じ暗号が使われていた。
米軍は最初の戦いのツラギ島攻撃戦で日本の小型艦艇の中にあった暗号表を発見してミッドウエー作戦の頃の暗号は解読されていた。
山本長官機の撃墜は暗号を解読した米軍の暗殺であった。日本海軍は暗号解読について終戦まで疑うことがなかった。
「持久戦に持込み休戦になった可能性について」
1.連合艦隊司令長官人事
連合艦隊指令長官は山本長官以外なら誰でも良かった。嶋田源太郎、小沢治三郎、山口多聞など海で暮らした船乗り提督が沢山居た。
彼らが司令長官になっていたら、日本海軍の伝統である日本近海での決戦を考えたであろう。恐らく航空機援護の基に艦隊決戦が起きたであろう。
また、司令長官自ら旗艦に乗り先頭に立って指揮したであろう。
また、中央の軍令部の支持を守り、国防圏内で戦ったと思われる。
山本長官は自身にあふれ自分以外の者の意見を聞こうとしなかったのであり、また
山本長官は、海外勤務が長く、提督よりも軍政に向いていた。
2.東久邇稔彦内閣が成立した場合
この内閣では、英米戦回避の努力を続ける。ハル・ノートの内容を世界へ発信する。
米国の世論はこのような通告は日本の指導者が戦争を決意するだろうと米国政府を非難するだろう。
大本営に陸軍・海軍統合参謀部を設置し、天皇の統帥を輔弼する。
この統合参謀部長に石原莞爾を任命して、日本の政治、軍事の戦略を検討させる。
石原莞爾は軍事の天才であった。彼は「世界最終戦争」という著書を出している。
合理的で先の見える傑出した天才軍人であった。しかし、東條と石原は仲が悪く東條は、石原の動きを憲兵に監視させ戦争前に予備役に編入してしまった。
石原の統合参謀部では、外交による戦争の回避の駆け引きを行い、やむ負えない戦争になった場合の陸軍、海軍の戦略。陸軍・海軍の協同作戦を考えたであろう。
満州などの石油の採掘。原子爆弾の開発。ロケットの開発など重要な案件を検討する。新兵器の開発では、レーダー、重戦車、対戦車砲、自動小銃、ロケット砲、艦艇の対航空機防御。潜水艦探知法と攻撃方法。
機動部隊の編成。輸送船防御の護送船団方式。パイロット養成。航空機の陸海統一の大量生産法。潜水艦部隊の増強。
その他、持久戦争完遂のためのあらゆる手段の検討など。
日本の潜水艦部隊は、敵の空母や戦艦を沈める任務を任されたが、敵部隊に近づくため駆逐艦の餌食になり沈没する潜水艦が多かった。また、ガダルカナルでは、物資の輸送を担当させられ犠牲になる艦が多かった。
潜水艦部隊の隊長たちは、軍令部に敵の輸送船攻撃を願い出たが採用されなかった。
米軍の補給線は、パナマ運河より南米大陸の西海岸に沿ってニュージーランドに向かうコースであった。このコースで日本の潜水艦が米軍輸送船を沈めたのはたった1隻であった。
米軍は警戒していたが日本の潜水艦が攻撃しないので不思議がった。
もし、石原莞爾ならば潜水艦部隊を増強して、米軍輸送船を攻撃するように命じたであろう。そうなれば、米軍が兵員、武器、食料、医薬品などをオーストラリアへの輸送量が減り、米軍の反抗作戦に支障を来して遅れたであろう。日本は持久戦に備え準備をする時間を稼げた筈である。
3.太平洋海戦の戦略
- 開戦前の日本の基本戦略は、蘭領東インドの攻略とシンガポール要塞の攻略であった。
従って一つはフィリピンを攻撃せず南支那海を素通りして蘭領東インドを攻略して石油を確保する案であり、この案を実施した場合、英米は対独戦で余裕がないのでオランダを援助しない可能性があった。(これは戦後英米首脳が語っている。)
もう一つは、フィリピン沖を通過した時、米軍から攻撃を受けた場合、宣戦布告してフィリピン占領とシンガポール攻略戦を行うことであった。
当時、ドイツは北アフリカ戦線でロンメル将軍が戦っており、日本海軍がインド洋に進出して陸軍を海上から応援して日本陸軍部隊がビルマ、インドを占領してドイツ軍と地中海で落ち合おうとヒットラーに催促されていたのでその案も可能であった。
- 日本の絶対国防圏は、マリアナ諸島、トラック諸島、パラオ諸島、フィリピン諸島でその奥の台湾や沖縄諸島に縦陣に陣地を建設する。
西はシンガポール、ボルネオ、東インドであり、縦横な陣地構築と各諸島間の相互防衛を構築すれば良かった。
最前線の防衛ラインは、マーシャル諸島、ソロモン諸島、ビスマーク諸島、カロリン諸島、ニューギニアであり、消耗戦を回避して適当な所で絶対国防圏に後退して米海軍を邀撃する。
- 石油などの戦略物資の輸送
東インドやマレー半島からの物資輸送は、駆逐艦や巡洋艦を主力とする輸送船団方式で行う。海軍はもっと船団輸送護衛に力を注ぐ。
4.持久戦と休戦講和の工作
日本が持久戦を続け太平洋を北上する米軍に損害を与え続ければ米兵の戦死を恐れる米国民も悲鳴をあげ平和を望み始める。米軍が日本の島嶼守備隊を攻撃している時に、日本の残存艦隊や航空機が攻撃を加えればかなりの戦果を上げるだろう。日本海軍が如何に残存艦隊を温存するかが鍵になる。
対独戦が終わると米国民は平和を望むようになる。ヨーロッパの戦いが終了しても太平洋の戦いは何時終わるかもわからない。日増しに米兵の損害が増える。
真珠湾攻撃などの騙し討ちを行ったわけではないので、米国民は日本人に恨みを抱いておらず日本と望んだ戦争をしているわけでない。
ルーズベルト大統領は、国民に第二次世界大戦に参戦しないと約束した筈である。これは約束違反であるという世論が強くなる。
日本は、ハル・ノートを全世界に公表し、アメリカがこのような理不尽な要求を突きつけたから日本は自衛のための戦争を選んだとプロパガンダを流す。
昭和20年頃にはアメリカが原子爆弾を開発したことは、日本は陸軍の諜報網で知っていた。
日本も原爆の開発を急いでいたが、アメリカが日本に原爆を使用したいとしてもサイパン島が手に入れていない現状ではB29の航続距離からいっても原爆を運搬出来ない。
中国本土の飛行場を使用する手もあるが日本軍が警戒しているため無理であった。
日本はラジオ放送でアメリカが新型爆弾を使用するなら日本もアメリカ本土で原爆を使用すると声明を出す。
日本の潜水艦部隊に原爆を積んだ戦艦などが米本土から回航するのを見張り撃沈する命令を出す。
ソ連が満州に参戦しても関東軍が強力な陣地を構築していて野砲、戦車、戦闘機などを有する無敵関東軍がソ連侵入部隊を撃滅して撤退させることが出来ただろう。
かくて昭和21年~22年頃になり米国民世論が休戦、講和を望むようになり、大東亜戦争は終わった。
このようなシナリオが考えられないわけではない。ただ、現実はあまりにも日本に不運な経過をたどり大敗北になったことは残念である。
日本国民は、連合軍にこっぴどくやられたために自信を失って自虐史観に陥っている。
しかし、一度だけの不運な戦争を反省し教訓を得て再び国家再興をせねばやがて支那や朝鮮の属国になるであろう。
日本国民はもう一度自信を取り戻し、栄光ある大日本皇国を再興する責務がある。日本人はアジアの盟主として天皇の御稜威の基にアジアに平和を打ち立てる責任がある民族なのである。
最近のコメント