海軍手記:生出寿著: 勝つ戦略 負ける戦略 東郷平八郎と山本五十六 NO.1 

海軍手記:生出寿著     勝つ戦略 負ける戦略 東郷平八郎と山本五十六 NO.1  

 

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著者:生出寿(おいでひさし)

 大正15年3月13日生まれ。栃木県生まれ。海軍兵学校第74棋。海軍潜水学校普通科学生。海軍少尉。東京大学文学部仏文科卒業。アサヒ芸能出版(株)(現徳間書店常務取締役。現在(株)ことば社社長。)

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「驕る一軍(南雲艦隊)、惨敗して勝算一挙に消滅」

   (中略)

 

昭和17年4月18日、米空母「ホーネット」を発進シタジエームス・H・ドーリットル陸軍中佐の率いるB25爆撃機16機が京浜、名古屋、神戸などに爆弾を投下した。

 

 被害は少なかったが、慌てた軍令部と陸軍の参謀本部は、両作戦をいそぐ気になり、その日時を連合艦隊の主張どおり6月7日と決定した。

 

 しかし、MI,AL同時作戦は、兵力を分散し大ブロシキを広げる作戦である。

それはまた、絶対にやるべき作戦と言うよりも、日本本土防衛のカッコウを付ける形式的な感じが強い作戦である。

 

 山本五十六は、本土が米機動部隊に奇襲され、海軍が世間の非難攻撃を受けることを異常に恐れていた。

平たく言えば自分の評判を悪くしたくなかった。

その山本の心理に合う作戦ともいえる。

 

 MI,AL作戦はとりやめ、また遥かに遠いフィジー、サモア攻略作戦も取りやめにして、軍令部の、

「マーシャル諸島線にがっちり邀撃のための布陣をする」と言う作戦だけを採用すべきであったろう。

 

 山本が連合艦隊指令長官を辞任するというなら、辞任させればよかった。

   (中略)

 

連合艦隊司令部は、昭和17年2月12日から新しく出来上がった戦艦「大和」に移り、艦隊の指導に当たっていた。

「大和」は基準排水量6万4000トン、時速27ノット(約50キロ)、46センチ9門の世界最大、最強の戦艦である。

 

 日露戦争のころ、「三笠」が世界最大、最強の戦艦であったのと似ている。

しかし、まったく似ていないのは、東郷司令部は「三笠」に乗り、つねに艦隊の先頭にたって戦ったのに対して、山本長官は「大和」に乗り、けっして「大和」で戦おうとはしなかったことである。

 

 艦隊の将兵たちは、このような大和を「大和ホテル」とか「大和御殿」とよんだ。

 

連合艦隊司令部の飲食は、この当時おそらく日本一といえるくらいぜいたくであった。

なにしろ全国から「山本長官へ」と、柱島泊地の「大和」に毎日のように山海の珍味がとどけられてくる。

それが参謀達にもおすそ分けになるからである。

 

 昼食は、山本と参謀たちが一緒に食事をするが、軍楽隊のクラッシックや軽音楽の演奏ツキでフルコースのフランス料理である。

 

 夕食は自分で好きなものを注文するが、鯛やマグロの刺身でも、ステーキでも大抵のものを食えた。

飲み物はビール、日本酒、国産ウイスキー、スコッチ、なんでもある。

  (中略)

 

ミッドウエー海戦前の連合艦隊将兵達のタルミよう、思いあがりようはすでに有名であった。

 中でも連合艦隊司令部、南雲機動部隊司令部のタルミ、思い上がりでここに極まったかと思われるのは、次のことである。

 

 5月15日、ソロモン諸島南東部のツラギ(がダルカナル島北側の島)を発進した海軍の飛行艇が、その東方約450浬(833キロ)に米正規空母2隻の機動部隊が西走するのを発見した。

翌日は見つからなかった。

 

 連合艦隊司令部と軍令部は、それは珊瑚海で失った2空母(このころは、ヨークタウンも撃沈したと判断していた)の穴埋めに、豪州カサモア方面に行ったと推定した。

 そこから、日本陸海軍の6月上旬のミッドウエー攻略作戦の時は、米空母は出現しないと判断した。

 

 粗大な神経というほかない。

彼らばかりか山本も、

「今度はたいした獲物はないだろう」と口にした。

 

 連合艦隊司令部から「敵空母は出現しないだろう」と聞かされた機動部隊の南雲、草鹿、源田らは米機動部隊にたいする警戒心をまったくなくした。

これでミッドウエー沖での索敵はオザナリになる。

 

 5月25日、聯合艦隊司令部は、「大和」に各司令長官、司令官、参謀をあつめMI、ALの図上演習、兵棋演習、作戦打ち合わせを行った。

 

 山本が挨拶し、宇垣と黒島が作戦計画のあらすじを説明した。

宇垣は作戦目的について、「ミッドウエー島の攻略に重点をおき、敵艦隊出現せば、鎧袖一触、いっきょにこれを撃滅する」と自信満々に述べた。

 

 黒島は「大和」に乗った山本が直率する戦艦中心の主力部隊と、先行する南雲機動部隊の蛇行序列について説明し、両艦隊の距離は600浬(カイリ)(約1100キロ)と言った。

 

 青森県の大湊に在泊中の第五艦隊から出張してきた中澤佑大佐は、

「この警戒航行序列はあまりにも広大でかつ荒く、敵の索敵兵力が潜入したり、我が方として敵を見落とす恐れがあるので、もっと緊縮して互いに協力しやすくする必要があるのではないか」と意見を述べた。

 

 600浬も離れていては、南雲機動部隊に何かあっても、主力部隊が追いつくのに30時間以上もかかり、役に立たないからである。

ところが黒島は、

「これで大丈夫、変更する必要は無い」と、木に竹をつぐような返事をした。

 

すると南雲機動部隊の草鹿龍之介参謀長(少将、兵学校第41期)が、

「機動部隊は主力部隊の支援を期待していない。自ら敵を求め、敵出現すれば、独力でこれを撃滅する。主力部隊は適宜続航すればよろしい。」と連合艦隊司令部をアテこするような発言をした。

 

 機動部隊と主力部隊の距離は、のちに300浬(約550キロ)に短縮されたが、それでも約に立たないことは600浬の場合と同じである。

 

 山本直率の主力部隊がこんな無意味と思われることを何故するのかといえば、主力部隊の将兵全員が戦争に参加しているカッコウをして、加俸や勲章にあずかるためだという説が強い。

そのようなことなら貴重な燃料も大損であるし出てゆくべきではない。

 それにしても宇垣、黒島、草鹿らの思い上がりはひどいものだしそれに同意してこのような歴史的大愚策をとる山本も同じである。

   (中略)

 

「大和」に乗った山本が率いる主力部隊は5月29日、柱島泊地を出て豊後水道を通り、太平洋をミッドウエーに向かった。

その前方300浬を南雲機動部隊が進む。

 6月4日夜、大和の敵信班はミッドウエー北方海面に敵空母らしい呼び出し符号を傍受し、聯合艦隊司令部に報告した。

山本は幕僚たちに言った。

「赤城(機動部隊旗艦)に知らせてはどうか」

幕僚たちは研究を始めた。

通信参謀和田雄四郎中佐が発言した。

「無線封止中でもあり、また第一航空艦隊は聯合艦隊より優秀な敵信班を持ち、しかも敵に近いので当然「赤城」もこれをとっているだろうから、特に知らせる必要はあるまい」

 

 赤城に知らせるべきだという者は一人もいなかった。

5月25日の「大和」での打ち合わせ会で宇垣参謀長は、機動部隊の草鹿参謀長に、

「重要な作戦変更は聯合艦隊司令部が支持する」と約束した。

しかし、「赤城」も傍受したろうと思ったのか何も言わなかった。

結局この電報は山本に進言して打電しないことになった。

 

 連合艦隊司令部がこの情報を発信したがらなかったのは、自分の位置を敵に知られ、敵潜水艦などに狙われたくないからであった。

    (中略)

 

6月5日午前1時30分頃各母艦を飛び立ったミッドウエー攻撃隊の戦瀑連合108機は指揮官の飛竜飛行隊長友永丈市大尉に率いられ、午前3時34分頃からミッドウエーのサンド島トイースタン島を爆撃した。

 

 午前5時20分すぎ、旗艦「赤城」の南雲司令部に重巡「利根」の4号機索敵機から、

「敵はその後方に空母らしきもの1隻をともなう 針路270度0520」という電報が届いた。

 その頃、三隻の米空母から発進した雷、爆撃隊は、戦闘機隊に護衛され、南雲機動部隊に向かっていた。

 

 南雲機動部隊の300海理後方の大和の作戦室では、「敵空母発見」の報に参謀一同が飛び上がらんばかりに喜んだ。

 

 それに対して山本が言った。

「どうだ、すぐやれと言わんでも良いか」

黒島は答えた。

「機動部隊には搭載機の半数は艦船攻撃に待機させるよう指導してあるし、参謀長口達でもこれをやかましく述べられているのですから、今更言わないでいいと思います。」

山本の考えは南雲に伝わらないことになった。

 

山本司令部の参謀たちはタテマエと現実の違いに少しも注意を払わない官僚のようである。

それを認める山本も同じようなものである。

山本司令部は、ニミッツ司令部と同じように内地にいて南雲機動部隊にあらゆる情報を送り、勝敗に関わる大事を指示、命令すべきであった。

 

 戦いもしないのに大和に乗り、将軍行列のように艦隊をひきつれて貴重な燃料を大量にムダづかいしながら、やることをやらないのでは、それこそ阿呆艦の連中である。

 

 午前6時18分、「赤城」「加賀」「飛竜」「蒼龍」は、帰って来たミッドウエー攻撃隊と上空警戒戦闘機の約半数(およそ18機)を収容し終わった。

 その直後から米空母機隊が各空母に突っ込んできた。はじめは低空を飛行する雷撃機ばかりであった。

 零戦の働きと対空砲火、回避運動によって魚雷は一本も命中しない。

だが、零戦全機が低空に降りたため上空はガラ空きとなった。

 

 そのころ大和の作戦室では、どういうつもりか山本長官が渡辺参謀を相手に将棋を差し始めていた。

 

 午前7時23分頃、米急降下爆撃隊が、ガラ空きの上空から、ニワカ雨のように南雲機動部隊に降りかかった。

 

「加賀」に4弾、「赤城」に2弾、ついで「蒼龍」に3弾が命中し、3艦とも大火を発生した。

飛行甲板や格納庫内にならぶ多数の飛行機が抱える魚雷、爆弾が誘爆して取り返しのつかないダメージとなった。

 驕る山本司令部と南雲司令部への仮借ない天罰のようである。

 

 惨事の直接原因は、南雲司令部が指導した索敵がオザナリで、敵空母発見が2時間30分ほど遅れたことであった。

機動部隊はこの朝、午前1時半から2時までに、180度(南)から31度(北北東)方向にかけて、7機の索敵機を扇状に飛ばした。

利根4号機はその内の1機で100度(東やや南)方向へ飛んだものであった。

 

 実は77度(東北東)方向へ飛んだ「筑摩」1号機が午前2時50分頃、米機動部隊の上空を飛んだのだが、雲の上を飛び、雲の下へ行かなかったために、それを見逃したようである。

機動部隊司令部の索敵に対する熱意の無さが、搭乗員にも影響したのである。

機数も後7機ぐらい増やし、注意力を集中して索敵すべきであった。

 

もう一つは、敵来空母発見の時、山口ニ航戦司令官から南雲に、

「現装備のまま攻撃隊直ちに発進せしむるを至当と認む」という意見具申が会っても、南雲、草鹿、源田らは米軍機を侮ってそれを握りつぶし、いち早く攻撃隊を発進させなかったことであった。

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「解説」          戸高一成

 

 明治維新後の日本は幾つかの対外戦争を行った。

   (中略)

幸か不幸か、この日露戦争と大東亜戦争に於ける日本海軍には、見事なまでに対比される二つの司令部があった。

一方は敵艦隊を撃滅し、一方は歴史上稀に見る敗北を被った。

 

 何故一方は勝ち一方は負けたのか。

著者の入念な解析がここから始まるのである。

本書の著者である生出寿氏は、海軍兵学校74期卒業の、れっきとした帝国海軍の教育を受けた海軍士官である。

しかし、その筆は遠慮会釈なく海軍の先輩をこき下ろす。

 

それは明快、かつ爽快な筆致であり、一読して明治海軍と昭和の海軍の気風の違いを明らかにしている。

 

 まず、日露戦争と太平洋戦争を概観する時、その類似性に驚かされる。

 

開戦がいずれも日本軍の奇襲で始まる。

(旅順奇襲⇔ハワイ奇襲)、予想外の大損害(戦艦初瀬・八島の機雷による沈没⇔ミッドウエー海戦)や苦しい消耗戦に耐えながら(旅順攻防戦⇔ソロモン消耗戦)決戦を挑むが失敗(黄海海戦⇔マリアナ沖海戦)。

そして最後の決戦で勝敗が確定することになる(日本海海戦⇔レイテ沖海戦)。

 

無論、日露戦争における結果と太平洋戦争における結果とは逆転しているが、全力決戦における勝敗の決定と言う構造は同じであろう。

 

こうして見ると戦争の全期間を連合艦隊の司令長官として戦った東郷と、ソロモン戦で早くも戦死した山本とは、簡単に並べることはできないが、戦いのレールを引いたことを思えば、以後の連合艦隊司令部の作戦指導も、やはり山本長官の影響が残ったと見る事ができる。

  (中略)

本書に於いて、東郷司令部と山本司令部の比較を読み直すとき、多くの教訓が浮かび上がる。

それは、読者をしてさらなる疑問を想起させるものである。

 

 読者が安易な結論に走らず、数限りない疑問の渦に巻き込まれることこそ、日本海軍を知り、それゆえに日本海軍、特に昭和の日本海軍に批判的である著者のめざしたものなのではないかと思うのである。

 

  • ・・・・・・・・・転載ここまで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「小生のコメント」

大東亜戦争は無謀な戦争だったという人の発言を聞くと激しい怒りを覚える。

戦中に生まれた者や昭和16年少し以前に生まれた者は、運悪く父親が戦死した者や勤労動員中に米軍艦載機によって殺された者やB29による都市の爆撃によって死亡した者が多い。

不幸にも父親又は両親の死や家族の死にあった者は戦後、口では言えない苦労をした。

 

 だから、無謀な戦争で国家の危機に命をかけて戦い戦死した我々の肉親は犬死で馬鹿だったのか?といつまでたっても怒りが収まらないのである。

 

そういう葛藤があり、肉親や家族の名誉にかけて大東亜戦争の実際はどうだったのかを研究するようになった。

 

 ところが団塊世代は運良く戦争を生き延びた両親から生を受けた者だから少しは苦労した者もいただろうが、戦中世代の運悪い者からすればはるかに幸せだった。

 そして団塊世代は占領軍の策略に乗せられて自虐史観や共産主義イデオロギーに嵌っていった。

 

 さて大東亜戦争は本当に無謀な戦争だったのか。答えは否である。

何故なら、米国や中国やソ連の陰謀によって日本は国家としてのプライドを傷つけられ、石油や資源の輸入を絶たれて自存自衛の戦争に追い込まれたのである。

 

 勿論、米国との戦争はしたくなかったが、中国からの撤兵や満州国の放棄など要求した米国には我慢の限界を越えたのである。

 

その当時の日本人は、誇り高い民族だった。

現在の多くの日本人は、竹島を取られても怒らず、尖閣を盗もれようとしているのに関係なく過ごしているようだ。

 

また、ロシアが北方領土に大統領が訪問してもあまり関係ないようである。

政府や国民はその領土のために戦争する覚悟がまずない。

もはや、戦前の日本人と全く別の人間が住んでいるようだ。

 

 ローマ帝国が滅亡した時にローマやイタリア全土にローマ人はあまりいなかったのだ。

何故か、蛮族がイタリア半島に侵略してローマ人を追い出したからであった。

 

 さて大東亜戦争は惨敗であった。

無条件降伏して本土が占領されるような敗北は避けられた筈であった。

何故、日本は大敗北を喫しなければならなかったのか?

 

 「大敗北の原因」

      1.山本を連合艦隊司令長官にしたこと。(最も不適任な人事)

 a.真珠湾攻撃

 

ハワイ奇襲は成功した。

しかし、日本の対米最期通告が攻撃開始より約1時間遅れたために、米政府はハーグ条約で取り決められた「戦闘開始に関する条約」を破る卑劣な騙し討ちであると宣伝し、山本五十六の主目的とはまるで反対に全米国民は憤激し、一挙に対日戦に立ち上がったのである。

 

 また、日本機動部隊が真珠湾の米戦艦群にたいする第一撃だけで、修理施設、燃料タンク、付近海上にいた空母「エンタープライズ」などに対する第ニ撃をやらずに引き揚げたために、やはり主目的とは反対に米政府と米海軍を安堵させ、対日戦への自信をつけさせることにしてしまった。

 

 ハワイの被害は見かけよりたいしたものでは無いとともに、全米国民を憤慨させて「リメンバー・パールハーバー」という合言葉で結束させるに十分であった。

闇討ちをしながら、米軍が応戦に立ち上がると、後ろも見ずに逃げる日本海軍は卑怯で軽蔑すべき相手であり、恐れるに足りないと信じられたからであった。

 

 それだけではない。

一撃で予想外の戦果をあげ、ほとんど無傷で引き揚げたことは、日本海軍のリーダーたちを戦果が自分らの才覚と実力によるものと錯覚させて思い上がらせ、無防備の敵に対する闇討ちのせいであったことを忘れさせた。

そのために六ヶ月後のミッドウエー海戦で、致命的敗北を喫することになるのである。

 

 b.辞職で脅かし強引に真珠湾攻撃を決めさせた。

 

昭和16年10月16日には、行き詰まった近衛内閣が総辞職し、翌17日には東條内閣が出現した。

柱島泊地の長門艦上で、緊迫した政変を見ていた山本は、いよいよ真珠湾空襲の肚を決め10月19日に、またも黒島先任参謀を軍令部へ派遣した。

 

ハワイ作戦での戦果を徹底させるために第一線空母赤城、加賀、蒼龍、飛竜、瑞鶴、翔鶴の6隻を投入したいと申し入れさせたのである。

 

しかし、作戦担当の富岡第一課長らは、猛烈に反対した。

「軍令部は全海軍作戦を大局的に見て、まず南方要域の確保に重点をおいている。

そのためにハワイ作戦には空母3隻でやってもらいたい」

ところが黒島は、ここで、

「聯合艦隊案が通らなければ、山本長官は辞職するといっておられる」

とついに奥の手を出した。

 

富岡は、山本の進退と戦略・戦術は別のものである。

そのような脅しで我を通そうなどとはもっての外であると、反対の姿勢をくずさなかった。

 

しかし、軍令部次長の伊藤整一と、第一部長の福留は、山本との付き合いが深く、強硬な反対が出来なかった。

 

そこで伊藤は、軍令部総長の永野に判断してもらうことにした。

すると永野は「山本がそれほど自信をもっているなら、やらせてみようじゃないか」とあっさりと答えたのである。

 

 もし、永野に対米作戦についての見識と所信があれば、この山本案は受け入れなかったに違いない。

そういうものがなかったのであろう。

 

 こうして山本は、聯合艦隊司令長官で、なお軍令部総長以上の存在となった。

日露戦争前に、山本権兵衛が辞職を迫った日高壮之丞常備艦隊司令長官を連想させる。

 

しかし、権兵衛ほどの大臣、総長がいないために、山本は引き続き連合艦隊司令長官にとどまることになった。

本当のところは、この時点で山本が長官を辞任した方が、海軍にとっても、山本にとっても良かったと思われる。

 

 永野が山本案を受け入れないことで、山本が長官を辞職したら、その後の海軍はどうなっていたであろうか。

もともと、賛成者など一人もいない真珠湾攻撃は取りやめになったに違いない。

   

 c. ミッドウエー作戦

 

昭和17年4月3日、作戦計画主務者の渡辺戦務参謀は、上京して軍令部に行きこの説明をした。

 

だが、軍令部第一部長の福留繁少将、第一課長の富岡定俊大佐、航空担当部員の三代辰吉中佐は、ハワイ作戦の時よりも更に強く反対した。

 

「ミッドウエー攻略は出来るだろう。しかし、ハワイ奇襲と同じようなやり方だから、敵の反撃を受けて犠牲が増大しよう。

米空母部隊を誘出するというが、いつどの様に出て来るか判らない。

 

占領しても、あとの補給、維持が難しい。

ミッドウエーに一番近い日本基地のウエーキ島からミッドウエーまでは1300海理あり、物資を運ぶのに4日以上かかる。

途中で敵の飛行機、軍艦、潜水艦に襲撃される恐れが大きい。

 

ハワイからミッドウエーまでは、1150海理だから、同島を米機動部隊が襲撃するのも、米軍が攻略するのも、簡単である。」という明快な理由である。

 

「それより、フィジー、サモアを攻略して米軍の南方からの反抗を封じ、マーシャル諸島線にがっちり邀撃のための布陣をするのが最も堅実だ」といって渡辺を説得しようとした。

 

渡辺はたじろいだが、ついに承服せず、最期には、

「山本長官は,この案が通らなければ、連合艦隊司令長官を辞任するといっておられる。」と真珠湾攻撃作戦の時と同じ奥の手を使った。

 

 永野修身総長、伊藤整一次長、福留一部長は、またしてもこれに屈服した。

 

 d.  連合艦隊司令部の作戦計画はいい加減であった。

 

連合艦隊でミッドウエー作戦を担当したのは、渡辺参謀と黒島参謀であった。

山本長官は彼らに任せきりであったように感じる。

山本長官はこのような杜撰な計画を真面目にチエックしていないようである。

また、聯合艦隊司令部の参謀全員で議論や検討をすることがあったのであろうか。

 

作戦室には、海図があったであろうがそれを見て真剣に全員で議論するような雰囲気がなかったような気がする。

 

山本長官は、黒島や渡辺に検討させ、参謀長の宇垣はつんぼ桟敷のようであった。

まして他の参謀の意見を述べる場はなかったように思う。

この司令部のチームワークは最低であり、リーダーの山本長官は指揮官として落第である。

 

山本長官は、暇さえあれば渡辺参謀と将棋を指し、真面目に任務に取り組まなかったから、ミッドウエーで大敗北を喫した。

 

東郷司令長官と比べると雲泥の差があり、東郷の幕僚たちは、山本の幕僚たちより真剣に戦いと向き合っていた。

 

昭和の海軍は机上秀才ばかり寄せ集め中身は同じ金太郎飴であった。

特に海軍は温和な人物だけを兵学校に入学させ豪傑型や型破りな人物を敬遠し、教官もまた真面目な温和な人物ばかりであった。

 

昭和の海軍は、官僚のようなタイプが多くなっていた。

そして兵学校の教育は、戦術のみを徹底して鍛えたが戦略や政治や歴史を教えなかった。

 

2.陸軍が対米戦について十分研究していなかった。

  陸軍はソ連との戦争に備え関特演を実施して研究していた。

 

 

 

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