吉田俊雄著「海軍のこころ」ー 「二期の候補生」 「半人前から一人前に」
吉田俊雄著「海軍のこころ」ー 「二期の候補生」
「半人前から一人前に」
遠洋航海から帰国した少尉候補生たちは、今度は実力部隊である連合艦隊に配属された。
練習艦隊の時のように軍艦の形をしている学校で実地教育するのでなく、実力部隊で実際に戦闘配置についている中尉、少尉とダブル配置につけてもらい、艦船勤務を体で覚える。
この期間を私たちは、二期の候補生といった。
(遠洋航海から帰ってくるまでの候補生を一期の候補生)。
二期の候補生の期間が終わると少尉になる。
軍服の腕の線が太い筋になる(候補生は半分の細い線)。
半人前から一人前になったわけだ。
私たちは、海軍兵学校に入ったと喜び、卒業して少尉候補生となったからといって喜んだが、そんな嬉しさなどメじゃなかった事が、少尉になってみてわかった。
連合艦隊での実習が終わり、術科学校(砲術学校、水雷学校、霞ヶ浦航空隊、通信学校など)での講習を済ませると、艦隊に戻ったがこのあたりから、世の中がすっかり変わりなんとも風雲急になってきた。
そういえば、私たちは、兵学校最上級生のとき(昭和6年9月)に満州事変が始り、遠洋航海中に上海事変(第一次)が起った。
続いて5.15事件。
私たちが少尉に任官したときには、連合艦隊は沖縄の中城湾に入っていて、日本が国連を脱退したばかりのときだった。
これも運というものだろうか。
少尉になり、一本立ちの海軍士官として人生を踏み出そうとする時、私たちは日本の破滅への序曲となる中国とのトラブルに、クラスぐるみ、巻き込まれてしまうのである。
私たちのクラスは、日華事変(昭和12年以後)の時、中尉から大尉に進級した。
陸戦隊では中隊長から大隊長。
艦艇では、大きな艦ならば分隊長、小艦艇(駆逐艦や砲艦)ならば砲術長とか水雷長など。
航空部隊だったら飛行科分隊長、飛行隊長(飛行機隊の隊長で、飛行機隊を率いて空中戦闘にあたる)。
大東亜戦争(4年後の昭和16年)のときは、4年目大尉(古参の大尉)から昭和17年には少佐、20年に中佐、つまり、陸戦隊では大隊長、艦艇では、大艦ならば科長(航海長、通信長など)、小艦艇(駆逐艦、潜水艦など)では、艦長、航空部隊だったら、始め飛行機隊長で、飛行長、ないし、航空隊の副長といったところ。
このころになると、東京の軍令部、海軍省をはじめ、各司令部(艦隊司令部、戦隊司令部)幕僚として活躍したものも相当あった。
先ほど、「運」といったが、ちょうどそういう回りあわせになっていたのだ。
大東亜戦争のような大きな戦争にぶつかった時、戦争の成り行きと戦闘者の年齢、そのときの人事の都合により、戦死者の多いクラスと少ないクラスとが、どうしても出て来る。
これも「運」「不運」というものであろう。
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吉田俊雄著「海軍のこころ」より転載。
文春文庫。2002年12月。
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小生の感想
この「海軍のこころ」という著書で吉田俊雄さんは、海軍士官の教育、遠洋航海、訓練などの思い出を懐かしく思い出して書いたようだ。
そして著者は、日本海軍を誇りに思っている。
だから、負けた原因は何かを自身の経験や調査や海軍関係者への聞き取りなどで研究してきた。
そして、やがて海軍再建するときに失敗の経験を役立てて欲しいと考えて沢山の本を書かれたと思う。
著者は、明治42年(1909年)生まれで、この本の出版は2002年だから、実に93歳の時に出版した。
どうしても後世に書き残したいことが沢山あったのだと思う。
もし、大東亜戦争がなかったならば、艦艇500余隻、160万トンの世界有数の大海軍が海底に沈むこともなかった。
しかし、歴史の事実は、もう戻らないけれど、日本国民は、今のシナ海軍の横暴に怒っているに違いない。
我々は、過去の戦争を反省してもう一度、日本海軍の再興を考えねばならない。
戦争は嫌だとか、寝惚けたことを言っているとシナ軍に侵略されてしまうだろう。
そしたら、太平洋の海や島々や大陸で戦死した300万の英霊は、無駄死にということになる。
それでは、祖国の家族や国の将来のために尊い命を捧げてくれた将兵に申し分けないと思うのである。
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