秘話 パラオ戦記  船坂 弘著  NO.1

秘話 パラオ戦記  船坂 弘著  NO.1

 

著者:船坂 弘

大正9年、栃木県に生まれる。昭和15年、満蒙学校卒。昭和16年、満州216部隊に入隊。

昭和19年、中部太平洋に参戦。昭和21年復員。

 

著者は、第14師団で満州の関東軍精鋭部隊として北辺の護りについていた。

昭和19年3月1日に師団に南方動員命令が下った。

チチハル駐屯地から旅順郊外に集結。

25日に旅順を出発し、大連港、門司港、横浜港、そして4月6日、南方目指して船団が出発した。

 

4月23日、どうにか無事にパラオ本島、ペリリュー島、アンガウル島への基点であるマラカル港に入港し、コロール島に到着した。

大連を出帆してからちょうど1ヶ月目であった。

 

 昭和40年の暮、私はある老母から手紙をもらった。

「私の息子は当時陸軍少尉でした。

決死の切り込み隊長として切り込み作戦に成功し、その事実が上聞に達し、2階級特進ということでしたが、どうしたことかその後、進級していないのです。

私は今まで足を棒にして調べましたが今もってその原因がわかりません。

これからは貴男にお願いして息子のことを調べて頂きたく筆をとりました。」

 

 発信者の名前は高垣ヨシノさん、住所は栃木県氏家町である。

息子さんは高垣勘二少尉。

従事した戦線は私と同じパラオ諸島戦線。

ここで何かが起こって高垣少尉の2階級特進を阻害しているらしい。

 

「わずかばかりの情報」

 

そのころ私はある執念に取りつかれていた。

放置されたままになっている英霊の骨を収骨するために慰霊供養を目的として玉砕島へ渡島する慰霊団の組織づくりである

 

老婆から手紙を受け取ってから、はや2年を経た昭和42年の夏の日だった。

私は暑い日差しの下で資料集めに奔走していた。

今度出版する書籍の印税によってペリリュー島にも慰霊碑を建立したいというのが私の願いだった。

私は自衛隊の戦史室を訪れ、さらに旧師団参謀の中川大佐の自宅を訪問した。

その日、私には天佑があった。

ありがたいことに14師団隷下の各連隊秘蔵の将校名簿が入手出来たのだった。

 

私の目は皿のようになって名簿の氏名の上を走っていた。

やはりあった。長く探し求めていた高垣少尉の姓名は歩兵59連隊の末尾にあった。

定員外の項の末尾に少尉の氏名が明確に記載されていた。

 

ちょうどその時、君島文男さんからの手紙が届いた。

「師団長命令で水中遊撃隊の隊長を養成するため各隊から水泳の堪能な将校を一名差し出すように指令されたとき、私もその訓練に参加しました。その時確か高垣少尉も参加していました」

 

 14師団の戦歴を調査して、昭和19年7月3日より8日まで海上決死遊泳隊の訓練があったことが判明した。

7月初旬の高垣少尉の所在がパラオであったことだけは判明した。

 7月初旬といえばサイパン失陥後である。

 

私の3冊目の戦記である「玉砕」の脱稿の日も近いころであった。

私は旧パラオ参謀中川大佐を訪れ秘蔵の電文をちょうだいしてきた。

電文は600通に上る膨大な綴りであった。

 

探し続けていた高垣少尉の戦功のハイライトは、次なる電文の全てに象徴されていた。

「ガラゴン島ヘノ斬り込み(11月8日)及ビ12月24日ハ、賢クモ御嘉賞ノ御言葉ヲ拝シタル。

当面ノ勇士高垣少尉ニ・・・・・(後略)」

「・・・・高垣勘二少尉ニハ個人感状ヲ賜リタキ意見ナリ・・・・(後略)」

 

ここに高垣少尉の勇士は蘇った。

少数の部下を率いてガラゴン島に潜入し、米軍の心胆を寒からしめた少尉の功績は再び人々の心を打ったのである。

しかし、老婆に依頼された二階級特進についてはなんの実情もつかめないままいろいろな疑いが私の心の底に低迷していたからだ。

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