【国会議員に読ませたい敗戦秘話】石原慎太郎が忘れ得ぬ東京裁判で味わった屈辱とは… マッカーサーによる政治ショーの実態を暴く

【国会議員に読ませたい敗戦秘話】
石原慎太郎が忘れ得ぬ東京裁判で味わった屈辱とは… マッカーサーによる政治ショーの実態を暴く  NO.1

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東京裁判の法廷として使用され、現在は市ヶ谷記念館として移設、復元された大講堂。 昭和21年5月3日、東京裁判初日の写真を、現在の写真に重ね合わせた。(被告席左から3人目が広田弘毅、5人目が東條英機)=18日午後、東京・市谷(松本健吾撮影)東京裁判の法廷として使用され、現在は市ヶ谷記念館として移設、復元された大講堂。 昭和21年5月3日、東京裁判初日の写真を、現在の写真に重ね合わせた。(被告席左から3人目が広田弘毅、5人目が東條英機)=18日午後、東京・市谷(松本健吾撮影)

国会議員に読ませたい敗戦秘話

~敗戦から70年。なぜ我が国は繁栄しているのか?~

 雨が降っていた。正確な日時は覚えていない。

旧制湘南中学校の学生だった石原慎太郎(元東京都知事)は、隣に住む大学生に連れられて東京裁判の傍聴に行った。

父、潔がどこからか傍聴券を手に入れてくれたからだった。

 法廷があったのは、大戦中は大本営陸軍部が置かれた東京都新宿区の陸軍士官学校(現市ケ谷記念館)。

2階の傍聴席につながる大理石の階段を上がると踊り場で進駐軍の憲兵(MP)に肩をつかまれた。

 「キッド(小僧)!」

 大声で怒鳴られたが、何を言っているのか分からない。

大学生が「『うるさいから下駄(げた)を脱げ』と言ってるぞ」と耳打ちした。

仕方なしに下駄を脱ぐと、MPは下駄をけり払った。

石原ははいつくばって下駄を拾い、胸に抱いてはだしでぬれた階段を上った。

 傍聴席から下を見下ろすと、被告席にA級戦犯として起訴された被告がずらりと並んでいた。

元首相の東條英機の顔も見えた。

 英語なので何の審理をしているのか、さっぱり分からなかったが、戦勝国が「支配者」として一方的に敗戦国を裁こうとしていることだけは伝わった。

 あの屈辱感は今も忘れない。

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 東京裁判の法廷は、ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判の法廷を模してつくられた。

 かつて天皇の玉座だった講堂の正面部分は無残に破壊されて通訳席となり、判事席と被告席が対面するよう配置された。

 1946年5月3日から48年11月12日まで続いた東京裁判は、連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーが、自らを「極東の統治者」として演出するための政治ショーでもあった。

被告席は傍聴席から見やすいよう配置され、被告の顔が記録フィルムにくっきり写るよう照明は増設された。

 45年8月30日、愛機バターン号で厚木飛行場に到着したマッカーサーは、その日のうちに米陸軍対敵諜報部隊長(准将)、エリオット・ソープにこう命じた。

 「戦争犯罪人の逮捕者リストを作れ。そしてまずトージョーを逮捕しろ」

 指令を受けたソープは当惑した。

リストを作成しようにも戦争遂行に関与した人物どころか、日本政府の指導体制や大戦の経緯など基礎知識がほとんどなかったからだ。

もちろん東條の自宅さえ知らなかった。

 作業が遅々として進まぬことにいらだったマッカーサーは9月8日にソープを呼び出し、怒鳴りつけた。

 「私の命令が10日間も実行されないのは前代未聞だ。48時間以内にリストを提出しろ!」

 追い詰められたソープはふと思いついた。

ずさん極まりないリストだったが…これを基に戦犯容疑者の一斉拘束が始まった

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東京裁判の法廷として使用され、現在は市ヶ谷記念館として移設、復元された大講堂。 昭和21年5月3日、東京裁判初日の写真を、現在の写真に重ね合わせた。(被告席左から3人目が広田弘毅、5人目が東條英機)=18日午後、東京・市谷(松本健吾撮影)

 「そうだ。マッカーサーはトージョーと言っているのだから、とりあえず真珠湾攻撃を仕掛けたトージョー内閣の閣僚を中心にリストを作ればよいのだ…」

 こうしてソープは翌9日に40人近いリストを作成した。

日本軍に協力した元フィリピン大統領やビルマ独立義勇軍のアウン・サン(少将)まで含まれるずさん極まりないリストだったが、これを基に戦犯容疑者の一斉拘束が始まった。

 「居所が分からない」とされた東條は東京・世田谷の自宅にいた。

AP通信記者からこの情報を聞いた連合国軍総司令部(GHQ)は、9月11日にMPを拘束に向かわせたが、東條は直前に短銃自殺を図った。

何とか一命を取り留めたが、その後もGHQの失態は続き、キーマンとなる人物が相次いで自殺した。

 近衛文麿はその象徴だといえる。

37年7月の日中戦争開戦時の首相で、41年の日米開戦直前まで首相を務めた近衛は、日本の戦争責任を追及する上で最重要人物だったが、どうやらGHQは気づいていなかった。

 その証拠に、近衛は終戦後の東久邇宮内閣に国務大臣として入閣し、45年10月4日にはマッカーサーが直接会って憲法改正を指示している。

この時点では、GHQは従順な近衛に占領政策の一翼を担わせる考えだったのではないか。

 近衛は戦犯リスト入りをひそかにおびえていたが、GHQが相次いで発表する追加リストにその名はなかった。

11月9日には米戦略爆撃調査団から日中戦争の経緯などを3時間も追及されたが、19日発表のリストにも名前がなかった。

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東京裁判の法廷として使用され、現在は市ヶ谷記念館として移設、復元された大講堂。 昭和21年5月3日、東京裁判初日の写真を、現在の写真に重ね合わせた。(被告席左から3人目が広田弘毅、5人目が東條英機)=18日午後、東京・市谷(松本健吾撮影)東京裁判の法廷として使用され、現在は市ヶ谷記念館として移設、復元された大講堂。 昭和21年5月3日、東京裁判初日の写真を、現在の写真に重ね合わせた。(被告席左から3人目が広田弘毅、5人目が東條英機)=18日午後、東京・市谷(松本健吾撮影)

 そこで近衛はようやく安堵したようだが、12月6日に突如としてリストに名を連ねた。

近衛は出頭期限の16日、東京・荻窪の自宅で「戦争犯罪人として米国の法廷で裁判を受けることは耐え難い」と書き残して青酸カリで服毒自殺した。

 近衛のリスト掲載が遅れたのは、中国が南京の軍事法廷への引き渡しを要求したこともあるが、GHQが大戦の経緯を理解していなかったことが大きい。

 近衛の自殺により、「軍人だけでなく文官も戦争犯罪人として処罰する」というマッカーサーの構想はもろくも崩れ、戦争への関与が極めて薄い元首相、広田弘毅が代わりに処刑されることになった。

×     ×     ×

 東京裁判のずさんさは数え上げれば切りがない。

検事団も判事団も戦勝国のみ。

A級戦犯の「平和に対する罪」は終戦近くになって編み出された概念にすぎない。

戦勝国に不都合な被告側の証言は通訳を停止し、記録に残さなかった。

 しかも被告の選定には、戦勝国の利害が露骨にからんだ。

 1946年4月10日、GHQはA級戦犯26人を確定した。

ところが、遅れて来日したソ連検事団が、日ソ間の協定で解決済みの張鼓峰事件(38年)とノモンハン事件(39年)を蒸し返し、元駐ソ大使の重光葵と元関東軍司令官の梅津美治郎の追加をねじ込んだ。

 重光が禁錮7年の刑となったことには首席検事のジョセフ・キーナンにも自責の念があったようだ。

後に重光の弁護人に「重光が無罪になることを期待する十分な理由があり、有罪となって非常に困惑した」と手紙で吐露している。

戦勝国の一方的な裁判に正面から異を唱えたのが東條だった

 

2016.5.18 11:00更新

【国会議員に読ませたい敗戦秘話】石原慎太郎が忘れ得ぬ東京裁判で味わった屈辱とは… マッカーサーによる政治ショーの実態を暴く

ニューギニア・マーカム渓谷での戦闘で輸送機の機銃のそばで指揮を執るマッカーサー。

新聞検閲官の経験を持つマッカーサーは戦闘報告も自ら執筆し、「闘将」を演出し続けた=1943年9月5日(ACME)

ニュース写真

  • GHQが入る第一生命館の前は連日大勢の群衆が詰めかけた。マッカーサーはあえて姿を見せることでその権威を高めていった=昭和21年1月8日、東京都千代田区
  • 東京裁判の法廷として使用され、現在は市ヶ谷記念館として移設、復元された大講堂。 昭和21年5月3日、東京裁判初日の写真を、現在の写真に重ね合わせた。(被告席左から3人目が広田弘毅、5人目が東條英機)=18日午後、東京・市谷(松本健吾撮影)
  • ウェッブ裁判長から死刑宣告を受けた東條英機。「わかっておる」と言わんばかりに深くうなずき、ヘッドホンを外して退廷した=昭和23年11月12日

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