[戦後70年] 特攻(4)敗戦「軍神」一転「クソダワケ」…..特攻隊員の親兄弟は泣いた「誰のために逝ったのか」NO.1
2015.4.9 07:00更新
【戦後70年】
特攻(4)敗戦「軍神」一転「クソダワケ」…特攻隊員の親兄弟は泣いた「誰のために逝ったのか」NO.1
(1/6ページ)【戦後70年~特攻】
昭和20年4月15日の朝、新聞を読んでいた岐阜県川辺町の岩井伴一さんは、突然立ち上がり、叫んだ。
「遅かった、遅かった。サダが逝っちまった」
悲鳴は家中に響いた。
この日の新聞に特攻隊の出撃を報じる記事が載り、その中に次男の定好(さだよし)伍長=当時(19)、戦死後少尉=の名前があった。
陸軍少年飛行兵で、第103振武(しんぶ)隊員として2日前、鹿児島県の知覧飛行場から出撃し、沖縄海域で特攻を敢行した。
岩井家では長男の千代司さんが18年3月5日、ソロモン諸島で戦死していた。
伴一さんは妻のよしゑさんの気持ちを慮(おもんぱか)り、戦死公報がくるまで内緒にしようと新聞をその場で燃やした。
だが、よしゑさんは定好伍長の戦死を知ることになる。
長男の戦死から立ち直りかけていたよしゑさんのショックは大きかった。
定好伍長の弟、鉞男(えつお)さん(86)は「1週間で髪の毛が真っ白になってしまった。
兄貴の死を受け入れられなかった」と振り返る。
よしゑさんは風の音がするたび、息子を出迎えるように庭や玄関を見やった。
畑仕事の最中に飛行機が上空を飛ぶと「サダが乗っとらんやろうね」とつぶやき空を見上げた。
「5本ある指はどれを切っても痛い。親にすれば、子供を一人でも亡くせば悲しいものだ」と繰り返しては涙ぐんだ。
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定好伍長から届いた最後のはがきには「最後の音信 元気で行きます。
御両親も御身体を大切に 皆様によろしく さようやら」と書いてあった。
「さようなら」が「さようやら」に。よしゑさんは動揺する息子の心中を察したのか、表情をゆがめ、苦しそうにしていた。
よしゑさんは29年6月、脳出血でこの世を去った。60歳。
「これでやっと千代司とサダの所に行ける」。
最期によしゑさんが見せた表情は、定好伍長の戦死を知って以来、初めて穏やかなものだったという。
× ×
伴一さんは定好伍長に何度も「お前は跡取りだから」と手紙を出していた。
鉞男さんは「長男を戦争で失ったおやじは、兄貴を跡取りと決めていた。
文言には『特攻だけには行かないでくれ』という意味が込められていた。
時局柄、そうは書けないから、言葉を選んで自分の気持ちを伝えようとした」と話す。
手紙の意味を読み取ってくれとひたすら願っていたが、届かなかった。
「もっと早く手紙を出しておけば本心が伝わったかもしれないという気持ちが思わず『遅かった』という言葉になったのだろう」と鉞男さん。
父親の落胆は大きく、急に老けたという。
長男の遺骨は戦地から戦友が運ぶ途中、船が撃沈され、伴一さんの手元に届かなかった。
それでも戦死の様子は戦友から聞けた。
だが、定好伍長の最期については全く情報がなかった。
どこで突撃したのか、言い残したことはないのか…。
次男の最期が分からない無念さと悲しさが入り交じった日々を送った。
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2人の部屋を掃除しようとすると、父は「そのままにしておけ。帰ってくるかもしれない」と言って、触らせなかったという。
× ×
日本が戦争に敗れると、特攻隊の親に追い打ちをかけるように環境は変わった。
鉞男さんは振り返る。
「おやじは『米軍が来る』『証拠書類になる』と言って、遺品の鉢巻きやアルバムを全部燃やしてしまった。
特攻隊に入っていたことをひた隠しにしていた。
おやじはおびえていた。唯一残したのは純毛製のセーターだけで、ぼろぼろになってもいつも身につけていた」
“敵”は米国だけではなかった。
次男が特攻隊員だった岩井家に対する周囲の目が敗戦で一変した。
「戦時中は軍神とたたえられたが、戦後、私も復員した兵隊に『特攻隊に行くような者はクソダワケ』と言われた。
一番ばかにした言葉だ。その時は私も、兄貴は犬死にだったかなって思った」
× ×
神雷部隊第5建武隊に所属していた愛媛県出身の曽我部隆(たかし)二飛曹=当時(19)、戦死後少尉=は昭和20年4月11日、500キロ爆弾を抱えて鹿児島県の鹿屋基地を出撃し、喜界島南方で米機動部隊に突入した。
10人きょうだいの六男だった。
曽我部家では六男の隆二飛曹だけでなく、次男と三男、七男が海軍へ進み、全員戦死した。
七男は隆二飛曹が特攻を敢行した8日後の戦死。
長男と四男、五男は陸軍の道を選び、全員生還した。
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