【戦後70年】特攻(1)少年兵5人「出撃2時間前」の静かな笑顔…「チロ、大きくなれ」それぞれが生への執着を絶った  NO.2

【戦後70年】特攻(1)少年兵5人「出撃2時間前」の静かな笑顔…「チロ、大きくなれ」それぞれが生への執着を絶った  NO.2

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特攻隊員の出撃直前の笑顔。子犬を抱く荒木幸雄伍長。(荒木伍長の左から時計回りに)早川勉、高橋要、高橋峯好、千田孝正の各伍長=昭和20年5月26日、鹿児島県(荒木伍長の兄、精一さん提供)

 

 「この訓練に打ち勝たねば、立派な操縦者になる事は出来ない。

この辛(つら)い訓練の後に、故郷の事を思い、何の此(こ)れ位と思い一層奮起せり」(18年11月17日)

故郷に思いをはせながら少年飛行兵を目指し、自らを鼓舞して、ひたすら訓練に励む少年の姿が浮かぶ。

昭和天皇の誕生日である19年4月29日の天長節には「明日は忘れもせじ靖国神社の例大祭である。

本年も二万柱の先輩の英霊が合祀(ごうし)せられた。

此の事を思うと一日一日をのんびりとすごす事が出来ようか。

一日も早く立派な操縦者として国家のため尽くす覚悟なり」と自らを戒めた。

特殊飛行訓練を開始した同年5月20日には「空襲其(そ)のときは第一番に飛び立ち敵機に打(ぶ)つかるの気概と技倆(ぎりょう)とを一日も早く向上せねばならない」と決意を新たにしている。

×   ×

修養録は19年6月20日にいったん途切れる。

この間、朝鮮半島で緩降下爆撃や超低空爆撃など実戦に向けての訓練を受けている。

同年10月、海兵第70期の関行男大尉らによる神風(しんぷう)特別攻撃隊が出撃したことを知ると、父親の丑次さんに「大東亜決戦も熾烈(しれつ)さを加え一大国難に際会致しましたとき特別攻撃隊等の諸先輩に引続き愈々(いよいよ)皇国の為(ため)奮励する覚悟です」とはがきを出した。

明らかに特攻を意識した内容だ。

修養録の再開は20年2月18日。

「特攻の精神を以(もっ)て訓練に内務に勉励せん。

敵機来らば敢然此の腕を以て此の襲撃機を操縦して敵に体当り(原文ママ)を敢行し潔く散華せん。

死生観に透徹し、死して汚名を残さず名誉を後生(こうせい)に残さん」と記した。

文言は過激になり、特攻を決意した心境が分かる。

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 感受性が強く環境に影響されやすい10代半ばの少年には、戦場で国家のために働く先輩飛行兵の活躍が勇ましく感じたのだろう。

戦局の悪化に従って、国家のために前線に行くことを当然と考え、特攻作戦が展開されるようになると、自然に出撃を決心している。

そして、翌3月31日。荒木伍長は特攻隊の命を受けた。

その5日後の4月5日には突然、群馬県桐生市の実家に戻っている。

精一さんによると、伍長は背筋を伸ばして正座し、落ち着いた声で「大命が下りました。元気で行きますから」と切り出して、家族一人一人の名前が書かれた封筒を渡した。

父親には陸軍航空総監賞と刻まれた懐中時計も手渡したという。

その数日後、精一さんは岐阜県の各務原飛行場に弟を訪ねた。

そのときの状況を振り返る。

荒木伍長は「母ちゃんは体が強くないから大丈夫かなあ」「後のことは頼むよ」と言った後、「俺はもういらないから、母ちゃんに渡して」と十円札を数枚出して、精一さんの手につかませた。

精一さんは代わりに「これを持っててくれ」と言って自分の時計を手渡したという。

×   ×

修養録は、佐賀県の目達原(めたばる)陸軍飛行場で待機していた20年5月20日、「明日出撃せよとの有難(ありがた)き命令を受く。

只(ただ)感慨無量。一撃轟沈(ごうちん)を期すのみなり。

最后(さいご)の秋を朗らかに歌ひ

 

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 文章の途中で終わっていることに、精一さんは「最後まで書く時間がなかったのか、それとも感極まったのか。弟の気持ちを考えると胸が詰まる」と話す。

最後の便りは出撃当日の5月27日消印のはがきだ。

「幸雄も栄ある任務をおび、本日(廿七日)出発致します。

必ず大戦果を挙げます。桜咲く九段で会う日を待って居(お)ります。

どうぞ御身体を大切に。弟達及隣組の皆様に宜敷(よろし)く。さようなら」

最後まで、自分の死と引き換えに国家の平和と家族の健康を願っていたことが伝わってくる。

荒木伍長らは写真の子犬を「チロ」と呼び、「元気を出せ」「大きくなれ」と声をかけていたという。

チロを囲む5人の笑顔。その瞬間だけ、彼らの脳裏には数時間後に特攻隊として出撃するという現実が消えていたのだろうか。(編集委員 宮本雅史)

起死回生狙った戦術、6418人戦死

日本軍の体当たり攻撃は昭和18年5月8日、飛行第11戦隊の隊員がB17に体当たりして撃墜するなど、操縦士自らの意思によって行われた「個人特攻」に始まる。

戦況悪化の中で起死回生を狙って正式な戦術としての「特攻」に様相を変えたのは19年10月、フィリピン・レイテ沖海戦で、海軍第1航空艦隊の志願者24人が「神風特別攻撃隊」に編成され、爆弾を抱いて敵艦へ体当たり攻撃を仕掛けてから。

これを皮切りに、特攻作戦が常態化し、特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、終戦までに6418人が戦死したとされている。

別れの」で終わっている。

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特攻隊員の出撃直前の笑顔。子犬を抱く荒木幸雄伍長。(荒木伍長の左から時計回りに)早川勉、高橋要、高橋峯好、千田孝正の各伍長=昭和20年5月26日、鹿児島県(荒木伍長の兄、精一さん提供)

 特攻は、250キロ爆弾や500キロ爆弾を抱えて敵艦に体当たりする航空機特攻のほか

直径1メートル、全長約15メートルの大型魚雷に操縦席を設けた人間魚雷

「回天(かいてん)」、

モーターボートに爆弾を搭載した水上特攻艇「震洋(しんよう)」、

爆弾を積みロケット噴射で滑空して体当たりする「桜花(おうか)」などの兵器も開発、投入された。

 20年4月には、戦艦「大和」を旗艦とする艦隊が沖縄決戦に向かう途上、4隻を除き撃沈された。

この出撃は作戦命令に「特攻」と明記されており、これを含めると特攻による戦死者は8千人を上回るとされる。

 昭和20年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸した。

以降、多くの若者が沖縄を目指し特攻出撃した。過酷な時代を生き、自らの命を賭けて日本を守ろうとした若者はいかに生き、どう死んでいったのか。

残された肉親らの戦後は-。それぞれの思いに迫る。(編集委員 宮本雅史)

 

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