【戦後70年】忠誠登録書に「ノー」で収容所暮らし…日系2世が見た戦中・戦後の証言 羽田空港で展示
【戦後70年】
忠誠登録書に「ノー」で収容所暮らし…日系2世が見た戦中・戦後の証言 羽田空港で展示
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沖縄出身の両親を持つ日系2世で編成された部隊(沖縄県平和祈年資料館提供)
先の大戦末期、沖縄で激しい地上戦が展開し、多数の民間人が犠牲になる中、米兵として通訳などを務めたハワイ出身の日系2世らの証言を集めた
「日系2世が見た戦中・戦後~母国と祖国の間(はざま)で」が5日まで、羽田空港国際線旅客ターミナル5階ホールで開かれている。
戦後70年を迎え、主催の沖縄県平和祈年資料館は「母国と祖国の間で揺れた日系2世の思いを知ってほしい」としている。
引き金を…
「一発も銃を撃たず、メガホンと辞書で(投降を)呼びかけ、(私を)信じて出てきてくれた人がいたことが誇りです」と証言するのは、タケジロウ・ヒガさん(91)だ。
2歳ごろから沖縄で母親と過ごしたが、日中戦争が激しくなり、16歳の時にハワイへ。
真珠湾攻撃の後、日系人に対する風当たりが強くなり、悩んだ末、軍に志願した。
昭和20年4月1日、沖縄に上陸。
茂みの中で人が隠れているのを発見し、銃の引き金を引きそうになる。
しかし、「出てきてください」と沖縄の方言で呼びかけると、老女と5、6歳の少女が出てきた。
「もし引き金を引いてしまっていたら、気が変になっていたでしょう」と振り返る。
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ハーバート・ヤナムラさん(91)は、糸満市内で隠れている住民に投降を呼びかけ、1500人余りの住民の命を救ったが、救えない住民もいた。
「戦争は本当に辛い」。
シンエイ・ギマさん(90)は真珠湾攻撃について「両親の祖国が、自分の母国を攻撃した。
理解しようとしても無理でした」と証言。
だが、通訳兵として沖縄の地に降り立った瞬間、ルーツが沖縄にあることを感じ、思わずひざまずいて、地面にキスをしたという。
米兵だけではなく、収容所に入れられた日系2世の声も。
ヒデオ・カネシロさん(92)は17年、FBI(米連邦捜査局)に呼び出される。
米国への忠誠登録書の質問に「ノー」と答えたことから、複数の収容所を経て、反抗的とされた人ばかりを集めた最も厳しいカリフォルニア州のツール・レイク収容所へ。
5年間のつらい収容所生活についても証言している。
世界に発信
同資料館は、沖縄戦を体験した人や両親が沖縄出身者を中心に、高齢の日系2世たちの“貴重”な証言を集めた。
今回、展示しているのは20人の証言のパネル。
より多くの人に見てもらおうと、羽田空港で展示を行ったという。
家族でハワイに向かう荒川区の男性会社員(34)は「こういう人たちがいたということは、知らなかった。
戦争の悲惨さを伝えるためにも、自分の子供にも話してあげたい」とパネルに見入っていた。
同資料館の学芸主査、功刀(くぬぎ)弘之さん(47)は「世界の玄関口である羽田の国際線ターミナルで発信することで、沖縄にゆかりのある日系人たちがどのように苦労し、戦争に巻き込まれていったかを知るきっかけになれば」と話した。
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沖縄出身の両親を持つ日系2世で編成された部隊(沖縄県平和祈年資料館提供)
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沖縄戦 先の大戦末期の昭和20年3月26日、米軍が那覇市の西にある慶良間(けらま)諸島に上陸して始まった。
4月1日には沖縄本島中部の読谷村(よみたんむら)に上陸。激しい地上戦が行われ、6月23日に終結したとされる。
日本軍約9万4千人、沖縄の住民約9万4千人が亡くなったといわれている。
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