【戦後70年 核物理学の陰影(上)】幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…NO.3
【戦後70年 核物理学の陰影(上)】幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…NO.3
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焼失を免れた旧理化学研究所37号館に当時のまま残されている仁科芳雄博士の執務室=東京都文京区本駒込
清水氏の研究ノート3冊と資材リストも残されていた。
ノートは皇紀で日付が記されており、海外の論文を熱心に読み込み、遠心分離機の材質や構造を研究した様子がうかがえる。
政池氏は「ウランを入れる容器の材料として、零戦(れいせん)用に開発された軽量で強い超々ジュラルミンという合金を使うことが書かれており、興味深い」とページをめくる。
荒勝研究室には中国・上海の闇市場で海軍が購入した約100キロのウラン化合物が運ばれたという。
だが遠心分離機は結局、完成せず、実験に使われることなく終戦を迎えた。
ただ、完成していても、実は当時の遠心分離法ではウラン濃縮は不可能だった。
それを既に知っていた米国は別の方法で原爆を開発した。
遠心分離法による濃縮は、容器内に温度差を設けて対流を起こす技術などを併用することが必要で、実用化したのは戦後になってからだ。
F研究は極秘だったニ号研究と比べオープンに行われ、研究も基礎的な段階にとどまった。
戦後、荒勝研に所属した竹腰秀邦京大名誉教授(88)は「荒勝先生は原爆を開発できるとは思っていなかっただろう。
終戦に間に合う見込みはなかった。
時代に翻弄された科学者といえるのではないか」と話す。
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京大に当時の面影はないが、その名残をとどめている場所がある。
生協本部が入っている「花谷(はなたに)会館」。
F研究に加わった荒勝研の大学院生、花谷暉一さんの遺族が寄贈した建物だ。
優秀だった花谷さんは広島の原爆被害調査団に同行した際、枕崎台風による土石流で命を落とした。
会館の由来を知る学生は、今では少ない。
◇
≪学徒動員≫
■「ウラン採掘」終戦日まで
終戦が迫っていた昭和20年4月。
ニ号研究による原爆開発で起死回生を狙う陸軍は、福島県石川町の山間で、旧制私立石川中(現石川高)の3年生約60人を学徒動員し、ウランの採掘を開始した。
「毎日、家から10キロ歩いては集まり、午前8時半ごろから午後4時ごろまで『黒く光る石を探せ』と働かされたものです」。
有賀究(きわむ)さん(84)は、今はのどかな水田が広がる採掘場跡を前に、こう振り返った。
重機はなく、スコップやつるはしで岩肌を砕く重労働。
わらじ履きの足はすぐ痛くなり、腹も空いて仕方がなかった。
米軍機の機銃掃射にも襲われた。
陸軍将校から「君たちが掘っている石がマッチ箱1個分もあれば、ニューヨークを吹き飛ばす爆弾が作れる」と言われた。
「お国のために頑張らなくては」と精を出した。
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原爆開発に必要なウランは当時、日本ではほとんど産出しなかった。
陸軍はドイツや朝鮮半島から秘密裏に運ぼうとしたが、いずれも失敗。
戦前から微量のウランを含む「ペグマタイト」という鉱石を少量産出することで知られる石川町に、望みをつないだのだ。
同町文化財保護審議会委員の橋本悦雄さん(66)は「戦局が悪化する中で、軍としては苦肉の策だったのだろう」と話す。
ニ号研究は6月に中止されたが、町には情報が伝わらず、採掘は終戦当日まで続いた。
学徒による採掘量は1トン近くともいわれるが、どこに運ばれたかは不明で、何の役にも立たなかった。
前田邦輝さん(85)は「自分たちが掘っていたものが何だったのか、戦後数十年たって初めて知って驚いた」。
結局、ウランは採れなかったが、それでよかったと思っている。
「科学者は純粋に研究したかっただけなんだろうが、軍部にどう使われたか分からないからね」と語った。
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≪科学と戦争≫
■情報、物資の差で成否
原爆は核物理学が急速に進歩した「科学の時代」と第2次世界大戦が不幸にも重なって生まれた。
ドイツのアインシュタインは1905年、特殊相対性理論を発表。
物質の質量がエネルギーに変わり得ることを証明し、これが原爆開発の素地になった。
38(昭和13)年にはドイツの物理学者ハーンらが、ウラン235に中性子を当てると核分裂して巨大なエネルギーを放出することを発見。
核物理学の飛躍的な進展とともに、新兵器への応用も現実味を帯びてきた。
ドイツでは当時、戦況悪化で原爆はあまり研究されていなかったが、米国はヒトラーが先に作るのではないかと疑心暗鬼に陥り、42年に原爆開発の「マンハッタン計画」を始動した。
一方、戦前の日本の核物理学は欧米と肩を並べる水準で、科学者は原爆開発の可能性をほぼ同時期に把握していた。
しかし、開戦後は海外から科学技術の最新情報を入手できず、研究に必要なウランや金属も調達できなくなった。
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米英は44年の時点で計3670トンのウランを確保していたが、日本は多くても1トン程度。
理研がウラン濃縮で大量生産に不向きな熱拡散法を採用したり、装置に不具合が生じたりしたのも、開発に必要な資材の不足が影響している。
米国のマンハッタン計画には12万人が参加し、研究費は当時の22億ドル(103億円)に上った。
これに対し日本の原爆研究者は数十人で、研究費もニ号研究で2000万円にすぎない。
組織も陸海軍で一本化されておらず、開発体制はあらゆる面で脆弱(ぜいじゃく)だったといえる。
核開発史に詳しい山崎正勝東京工業大名誉教授(70)は「こんな状況で、日本は初めから原爆など開発できるはずがなかった。
予想通りの結果に終わった」と話す。
2015.8.3 14:30更新【戦後70年 核物理学の陰影(上)】幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…
理化学研究所の仁科芳雄博士(仁科記念財団提供)
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タグ:■情報、物資の差で成否, 「ペグマタイト」という鉱石を少量産出することで知られる石川町に, 『黒く光る石を探せ』, それを既に知っていた米国は別の方法で原爆を開発した。, だが遠心分離機は結局、完成せず、実験に使われることなく終戦を迎えた。, ドイツのアインシュタインは1905年, 原爆開発に必要なウランは当時、日本ではほとんど産出しなかった。, 特殊相対性理論を発表。, 米英は44年の時点で計3670トンのウランを確保していたが、日本は多くても1トン程度, 荒勝研究室には中国・上海の闇市場で海軍が購入した約100キロのウラン化合物が運ばれたという。, 42年に原爆開発の「マンハッタン計画」を始動した。
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