【戦後70年 核物理学の陰影(上)】幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…NO.2

【戦後70年 核物理学の陰影(上)】幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…NO.2

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焼失を免れた旧理化学研究所37号館に当時のまま残されている仁科芳雄博士の執務室=東京都文京区本駒込

 

 「ニ号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来た。

米英の研究者は理研の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである」

科学者としての敗北感と自責の念がにじむ。

次男の浩二郎氏(83)は現地調査から帰宅したときの仁科の様子を覚えている。

「悲惨な状況を目の当たりにして、大きな衝撃を受けていた」

仁科は原爆だけでなく、原子力のエネルギー利用にも関心を持っていたとされる。

戦後は原子力の安全利用のための国際的な枠組みづくりを訴えた。

「原爆開発には失敗したが、あれ以上に戦禍を拡大せずに済んだという意味で、父はほっとしていたかもしれない」。

浩二郎氏は静かに語った。

■ニ号研究に参加 福井崇時氏(91) 「証拠、川に捨てた」

--原爆研究のニ号研究に関わったきっかけは

「大阪帝国大の1年生だった昭和19年春、理学部物理学教室の助教授だった奥田毅先生から『(ウラン濃縮に使う)分離筒の世話をしろ』と言われた。

理研が空襲で危なくなったので、阪大に分室を作ったと後で聞いた」

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「分離筒をポンプで真空にする作業をした。

停電するとポンプが止まって油が逆流するので、そのための世話をした。

問題は、分離筒は当時の日本の製作技術としては無理な構造だったこと。

溶接が不完全で漏れがひどく、真空にならないので全然だめだった。

20年春、理研から六フッ化ウランが持ち込まれたが、分離筒の真空度が悪く、入れても意味がないので注入しなかった」

--原爆を開発できると思っていたか

「こんなもので、できるはずはないと思っていた。

原爆を作ろうにもウランがない。

ウラン235も分離できていない。

原爆の卵のもっと向こうの、よちよち歩きの状態だった。

原爆を作るなら、きちんとシステムや組織を作らなくてはいけないのに、日本は米国と比べて方針がなく、バラバラだった。

われわれ学生に分離筒をやれというのも、むちゃくちゃだった」

--終戦後はどうしたか

「進駐軍が来て分離筒を見つけると、えらいことになると思った。

阪大が理研の出店(でみせ)であることは隠していたからだ。

詳しく調べられると、先生方に累が及ぶ。

証拠は隠せと思った。

川に捨てれば分からなくなるので終戦の数日後、誰にも相談せず同期生と2人で、理学部のすぐ隣にある筑前橋から土佐堀川に3本の分離筒をばっと捨てた。

もう70年もたっているので、さびて腐っているだろう」

--仁科芳雄博士はなぜ原爆研究に取り組んだと思うか

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【プロフィル】仁科芳雄

にしな・よしお 明治23年、岡山県里庄町生まれ。大正7年、東京帝国大電気工学科を卒業し理化学研究所入所。

10年から昭和3年まで渡欧し量子力学を研究。

6年、仁科研究室創設。21年、理研所長、戦後初の文化勲章。24年、日本学術会議副会長。26年1月死去。

≪京都帝大「F研究」≫

■不可能だった遠心分離

原爆開発の研究は、海軍の依頼を受けた京都帝国大(現京都大)でも並行して行われていた。

核分裂の英語(フィッション)の頭文字を取って「F研究」と呼ばれた。

研究は戦局が深刻さを増した昭和18年5月に委託されたが、本格化したのは19年秋からだ。

原子核研究の草分けだった荒勝文策(あらかつ・ぶんさく)教授を中心に、理論面で湯川秀樹博士らも参加した。

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 ウラン濃縮は理研とは別の方法を試みることになり、遠心分離法を採用した。

天然ウランを容器に入れて高速回転させ、遠心力を利用してウラン235を分離する方法で、洗濯機の脱水と同じ原理だ。

遠心分離機は、荒勝研究室の講師だった清水栄京大名誉教授らが独自に設計する一方、東京計器製作所(現東京計器)にも設計・作製を依頼した。

1カ月後に終戦を迎えることになる20年7月。

F研究に関する海軍と京大の最後の合同会議が琵琶湖岸のホテルで開かれた。

ここで海軍出身の東京計器顧問、新田重治氏が遠心分離機の構造を説明している。

「その図面が出てきたのですよ」。

核物理学の歴史を調べている政池明京大名誉教授(80)が明かす。

今年6月、清水氏の遺品から見つけた。

記録がほとんどないF研究を裏付ける貴重な証拠だ。

図面は劣化して見にくいが、「完成 昭和20年8月19日」との記載が見える。

終戦の4日後に完成させる予定だったのか。

米国の資料によると、東京計器は遠心分離機の製造中に空襲で被災し、装置は失われたという。

荒勝研が独自に設計した新たな図面も見つかった。

20年3月に作製され、「空気タービン式超遠心分離装置」との表題がある。

容器を圧縮空気で浮かせて摩擦を減らし、高速回転させる仕組みで、方眼紙に詳細な構造が書かれている。

 

2015.8.3 14:30更新【戦後70年 核物理学の陰影(上)】幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…

理化学研究所の仁科芳雄博士(仁科記念財団提供)

ニュース写真

    • 焼失を免れた旧理化学研究所37号館に当時のまま残されている仁科芳雄博士の執務室=東京都文京区本駒込

    • 熱拡散法によるウラン濃縮

    • 福井祟時・名古屋大名誉教授

    • 大阪帝国大理学部

    • 福島県石川町では終戦当日まで学徒動員でウラン採掘が続けられた=昭和20年(石川町立歴史民俗資料館提供)

  • 戦時中の原爆開発体制

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