【戦後70年 核物理学の陰影(上)】幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…NO.1
【戦後70年 核物理学の陰影(上)】
幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…NO.1
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焼失を免れた旧理化学研究所37号館に当時のまま残されている仁科芳雄博士の執務室=東京都文京区本駒込
湯川秀樹博士のノーベル賞受賞など輝かしい歴史を誇る日本の原子核物理学。
しかし、草創期の終戦前後は苦難の時代でもあった。
軍の依頼で極秘に行われ失敗に終わった原爆開発、その後に起きた円形加速器「サイクロトロン」の破壊事件。
記録や関係者の証言を基に、科学者が巻き込まれた2つの出来事の「当時と今」を追った。
◇
≪理研「ニ号研究」≫
■幻の原爆開発、ウラン濃縮が壁
■実験失敗、焼失した「始終苦号館」
由緒ある高級住宅街として知られる東京都文京区の本駒込。
その一角に、昭和初期の建物が1棟残っている。
かつての理化学研究所の研究棟37号館だ。
この東隣にあった木造2階建ての49号館で戦時中、極秘の原爆研究が行われていた。
研究が始まったのは戦前の昭和16年4月。
欧米で核分裂反応を利用した新型爆弾が開発される可能性が指摘されていたことを背景に、陸軍が理研に原爆の開発を依頼した。
核物理学の世界的権威だった仁科芳雄博士に白羽の矢が立った。
約1年後、ミッドウェー海戦で大敗した海軍も「画期的な新兵器の開発」を打診する。
仁科は原爆開発の可能性を検討するため、物理学者による懇談会を組織。
だが、懇談会は「理論的には可能だが、米国もこの戦争では開発できない」と結論付け、研究は進展しなかった。
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「米独では原爆開発が相当進んでいるようだ。遅れたら戦争に負ける」。
東条英機首相兼陸軍大臣は研究開発の具体化を仁科研究室に命令。
「ニシナ」の名前から、計画は「ニ号研究」と名付けられた。
■ ■
ニ号研究は原爆に使うウラン濃縮技術の確立、濃縮の確認に使う大型の円形加速器「サイクロトロン」の開発、ウラン調達ルートの確保が3本柱だった。
天然ウランには中性子の数が異なる同位体が複数存在する。
核分裂するウラン235は全体のわずか0・7%で、残りは核分裂しないウラン238だ。
原爆はウラン235の核分裂で出てきた中性子が、ほかのウラン235に衝突して瞬時に核分裂の連鎖反応が広がり、爆発的なエネルギーを放出する。
ウラン238は中性子を吸収して連鎖反応を妨げるため、原爆開発にはウラン235の比率を10%に高める濃縮が必要だった。
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分離筒は二重構造で内側に外径3・5センチの筒があり、2つの筒の間には2ミリの隙間がある。
この隙間の空気を抜いて真空にして、天然ウランをフッ素に反応させて作った六フッ化ウランのガスを注入。
電熱線で内筒を350~400度、外筒を50度にして温度差を作ると、ガスが上下に対流し、筒の上側に軽いウラン235、下側に重いウラン238が集まる仕組みだ。
分離筒は19年3月に完成し、7月から実験が始まった。
理論的にはうまくいくはずだった。
だが六フッ化ウランが筒と化学反応を起こして分離できない事態に陥る。
筒には化学反応を起こしにくい金メッキをすべきだったが、戦時中の物資不足で銅を使ったことが落とし穴になった。
実験は計6回行ったが、いずれもうまくいかない。
20年1月、チームの1人は日誌に「行き詰まった感あり」と記す。
分離筒を作製し、実験で悪戦苦闘した竹内柾(まさ)氏は戦後、49号館を「始終苦号館」と評した。
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仁科が中止の可否を陸軍に尋ねると、6月に届いた返答は「敵国側もウランの利用は当分できないと判明したので、中止を了承する」という楽観的なものだった。
広島に原爆が投下されたのは、その2カ月後だった。
■ ■
焼失を免れた37号館の2階には、仁科の執務室が当時のまま残っている。
まるで時間が止まったかのような空間だ。
仁科記念財団の矢野安重常務理事(67)は、この部屋で今も遺品の整理を続けている。
「濃縮実験の状況から、仁科は本当に原爆を開発できるとは思っていなかっただろう」と心中を推測する。
仁科は米国も太平洋戦争中には開発できないと考えていた。
それだけに広島の原爆には計り知れないショックを受けた。
現地調査に赴く直前、研究員にあてた手紙にこう書き残した。
【戦後70年 核物理学の陰影(上)】幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…
理化学研究所の仁科芳雄博士(仁科記念財団提供)
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