ガダルカナル島(下)「ガ島にすべての敗因が詰まっている」作家・亀井氏、山口出身の参謀ら取材
ガダルカナル島(下)「ガ島にすべての敗因が詰まっている」作家・亀井氏、山口出身の参謀ら取材
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昭和17~18年ガダルカナル島(ガ島)の戦いでは、投入兵力の6割、2万人以上の日本兵が亡くなった。
作家、亀井宏氏(84)=和歌山県新宮市=は、山口県出身の大本営参謀ら300人以上を取材し、昭和55年に「ガダルカナル戦記」を出版した。
「ガ島での局地戦に、あの戦争の敗因が全て詰まっている。
今の安全保障を考えたときも、最も学ぶべき教材といえます」と語った。(大森貴弘)
福岡陸軍墓地にある「歩兵第124連隊」のガ島戦没者の碑=福岡市中央区「失敗を学ばなければ、また同じことを繰り返す」
「自分だけ生き残ってすまん、という人。取材中、号泣する人もいた。
頭にテープレコーダーが入っているみたいに、すらすらと言葉を紡ぐ大本営の参謀もいた。
悲惨な戦場の話を聞き続けるうち、自分自身が袋小路に入っていくような感覚になりました」
亀井氏は30代後半から始めたガ島戦の取材に、7年をかけた。
胸中の焦燥感が、突き動かした。
▼ガダルカナル島(上) あこがれの伯父 遺品はベルト通し一つ
「あの戦争は歴史の一コマです。忌み嫌っても絶対に逃れられない。
『戦争中の国民は愚かで、8月15日を境に一斉に賢くなった』みたいな風潮があったが、私は違うと思った。
失敗を学ばなければ、また同じことを繰り返す」
取材を断られるケースが多かった。
2年以上、手紙を出し続け、やっと話を聞けた人もいた。
軍の中枢にいた将官・佐官から、第一線の兵隊まで、幅広く聞いた。
中でも、現地軍の参謀だった元陸軍少将の二見秋三郎氏は印象深いという。
「初対面で『お前』ですよ。いきおい、私も『閣下』と呼ぶ。
でも取材後、昔の威張る癖が直らんのじゃと言って、駅まで送ってくれた。
不器用で、まっすぐな人だったんでしょう」
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井本氏はガ島戦の終盤、撤退命令を携えて、島にも渡った。戦後は陸上自衛隊で要職を務めた。退官後、自ら記録を執筆した。ガ島戦に関係する書物には、必ずといって良いほど名前が挙がる。
「井本さんは、自分の悪かった面も含め、全て語ってくれた。信用できる人だった。
他の軍人、特に士官以上の話は、割り引いて聞く必要があった」
陸軍中枢の見方や、撤退にいたる経緯など、取材を繰り返した。
手紙を出せば、便箋に何十枚と返事をくれた。
取材対象は立場も見方も異なる人々だったが、共通する一言があった。
「あの戦争は、仕方がなかった」
亀井氏は言う。
「8月になると新聞やテレビで『戦争は二度とするものじゃない』って記事が出る。
でも、戦場経験者はそうは言わない。
もちろん戦争を肯定するわけではない。
ただ、誰もあの戦争の流れを止めることはできなかった。
だから、『仕方なかった』と言う。私もそう思います」
ぶっつけ本番
取材を重ねるうち、ガ島に、戦争の敗因が詰まっていると痛感した。
「陸海軍がけんかしていた、と言われますが、実はそうじゃない。
けんかするほど一緒にやっていればまだ良かった。
けんかもしないほど、別々の方向を向いていたんです」
例えば井本氏は「陸軍は米国を知らなかった。海軍が戦ってくれると思っていたから。
ガ島の緒戦でも、米兵はワンワン泣いて逃げ帰る連中だと思っていた」と語った。
戦前、陸軍はソ連、海軍は米国を仮想敵国として、役割分担をしていた。
陸海軍の協同作戦など、研究すらされていなかった。
亀井氏は「ガ島ではぶっつけ本番で、陸海の協調作戦を強いられた」とみる。
その結果、補給もままならない戦場に、大勢の兵士を置き去りにする状況となった。
昭和17年10月の総攻撃が失敗すると、大本営でも撤退案が浮上した。
だが、誰も公式には言い出さなかった。
本営参謀の元陸軍大佐、井本熊男氏(山口県出身)は、取材・執筆上の羅針盤のような存在だった。
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「ガダルカナル戦記」で戦いのありさまをあぶり出した亀井宏氏 撤退命令が出たのは翌18年1月だった。その間、ガ島では1日に数十人の兵士、すなわち日本国民が餓死した。
「考え続ける」
ガ島戦を通じて、陸海軍の溝を感じた亀井氏は現在、陸上自衛隊と海上自衛隊の連携に、危惧を覚えるという。
陸上自衛隊は3月、離島防衛を担う水陸機動団を新設した。
その後、陸自が輸送艦の導入を検討していることが明らかになった。
大規模な海上輸送は本来、海上自衛隊が責任を持つ。
「陸自と海自の間に溝があるのではないか。
自衛隊も当然、ガ島を教訓にしているとは思いますが…。同じ失敗は繰り返してほしくありません」
さらに緻密な取材と執筆を通して、戦前の「統帥権」肥大化を問題点として指摘した。
大本営が起案するとはいえ、天皇の命令として出た結果、撤回は難しかった。
「今の自衛隊は、首相が手綱を握ります。選挙を通じて国民一人一人の賢さが問われる。
でも、愚かさも備えるのが人間です。どうしたら良いのか、今も答えは出ません。
取材をした人は、皆さん亡くなり、私も病気で目が見えない。
でも、考えることをやめたら、そこでおしまいです」
タグ:「あの戦争は、仕方がなかった」, さらに緻密な取材と執筆を通して、戦前の「統帥権」肥大化を問題点として指摘した。, ガ島戦を通じて、陸海軍の溝を感じた亀井氏は現在、陸上自衛隊と海上自衛隊の連携に、危惧を覚えるという。, 中でも、現地軍の参謀だった元陸軍少将の二見秋三郎氏は印象深いという。, 亀井氏は「ガ島ではぶっつけ本番で、陸海の協調作戦を強いられた」とみる。, 作家、亀井宏氏(84)=和歌山県新宮市=, 例えば井本氏は「陸軍は米国を知らなかった。海軍が戦ってくれると思っていたから。, 取材を断られるケースが多かった。, 取材を重ねるうち、ガ島に、戦争の敗因が詰まっていると痛感した。, 失敗を学ばなければ、また同じことを繰り返す」, 戦前、陸軍はソ連、海軍は米国を仮想敵国として、役割分担をしていた, 昭和17~18年ガダルカナル島(ガ島)の戦いでは、投入兵力の6割、2万人以上の日本兵が亡くなった。
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