【戦後70年~昭和20年夏(7)】樺太に残された日本人女性 ソ連兵の恐怖に震え…過酷な日々、帰国信じ半世紀 NO.2

【戦後70年~昭和20年夏(7)】
樺太に残された日本人女性 ソ連兵の恐怖に震え…過酷な日々、帰国信じ半世紀 NO.2

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 だが、墓地の荒廃は進んでいた。

クマ笹や雑草が生い茂り、傾いたまま放置された墓石も少なくない。

旧ソ連は北方四島を軍事要塞化し、元島民が近づくことさえ認めなかったが、昭和39年以降、墓参だけは認めるようになった。

元島民が25年に結成した千島歯舞(はぼまい)諸島居住者連盟(札幌市)は「墓参が四島返還の足がかりになる」と考え、ほぼ年1回の集団墓参を実施してきた。

平成に入るとソ連は崩壊し始めた。

これを好機とみた日本政府は四島への人道支援を始め、病院や学校、ディーゼル発電所などを次々に建設した。

支援を通じて、元島民がビザなしでいつでも帰還できる環境を整えようと考えたからだ。

これが奏功し、入植ロシア人の対日感情は改善され、「四島を日本に返還し、ロシア人も繁栄の恩恵にあずかるべきだ」という声が上がるようになった。

だが平成18年に潮目が変わった。

露政府は「クリール(千島)諸島社会経済発展計画」を策定し、9年間で千島列島のインフラ整備や生活向上に計179億ルーブルの資金投入を決定。

24年7月には露首相のドミートリー・メドベージェフが国後(くなしり)島入りし「一寸たりとも領土は渡さない」と断じた。

今年7月には今後10年間で700億ルーブルの投資を決めた。

× × ×

18年以降、四島のロシア化は着実に進んでいる。

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 色丹島では26年12月、「南クリール地区中央病院色丹分院」が開業した。

デジタルマンモグラフィーなど最新医療設備が並び、ロシアの全病院で病歴や投薬情報を共有するシステムも導入された。

同島のクラボザヴォツク水産加工場もスケトウダラを加工・冷凍する最新の生産ラインを備えた。

他にも小中学校などの建設ラッシュが続く。

10歳まで国後島で暮らした大塚誠之助(80)=札幌市在住=はこう語る。

「70年という時は長すぎる。ロシア人が生活の根を張り、昔の面影が消えた島に高齢の私らは今さら移住できない。

せめて生きている間に自由に往来できるようになれば…」

× × ×

昭和20年8月15日、北方四島の居住者1万7635人は米軍の空襲を一度も受けることもなく終戦を迎えた。

まさか島を追われることになるとは夢にも思わなかったはずだ。

ところが、18日、ソ連第2極東方面軍8千人超が、千島列島北端の占守(しゅむしゅ)島に侵攻した。

陸軍第91師団2万3千人が応戦し、23日の武装解除まで日本兵600人、ソ連兵3千人の死者を出す激戦が続いた。

南樺太にもソ連第2極東方面軍が11日に侵攻し、陸軍第88師団と激突した。

もし両師団が応戦していなければ、北海道北半分はソ連に占領されていただろう。

第33代米大統領のハリー・トルーマンが、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンに「北海道の占領は認めない」と通告したのは8月18日だったからだ。

 

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 ソ連軍の上陸は四島の島民を恐怖のどん底に突き落とした。

若い女性は変装して納屋に隠れたが、逃げ場を失い、幼子を抱えて海に身を投げた母親もいた。

 ソ連は21年2月に四島を自国領に編入。

島民を強制退去させる決定をした。

島民は小型船で沖合に出た後、荷物用モッコ網に入れられてクレーンでつるしあげられ、大型貨物船の船倉に降ろされた。

完全にモノ扱いだった。

× × × 

 今年3月末の元島民は6774人、70年前の4割以下に減った。

四島の入植ロシア人は計1万7千人超で終戦時の日本人数に迫る。

元島民の平均年齢は79・8歳。残された時間はあまりない。(敬称略)

 この連載は石橋文登、峯匡孝、奈須稔、加納宏幸、遠藤良介、池田祥子、滝口亜希、高橋裕子、小川真由美、田中一世が担当しました。

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