【戦後70年~昭和20年夏(6)】なぜシベリア抑留者は口を閉ざしたのか ソ連の「赤化教育」の実態は…「やらねば自分がやられる」NO.1

【戦後70年~昭和20年夏(6)】
なぜシベリア抑留者は口を閉ざしたのか ソ連の「赤化教育」の実態は…「やらねば自分がやられる」NO.1

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平和祈念展示資料館に展示されているシベリアの抑留者収容所の模型 =6日、東京・新宿の平和祈念展示資料館 (大西正純撮影)

 

 ソ連軍によりシベリア抑留され、帰還した日本人将兵は50万人を超えるが、その多くが抑留体験について口を閉ざした。

寒さと飢え、重労働、仲間の死-。思いだしたくもないのは当然だが、もう一つ理由があった。

日本の共産主義化をもくろむソ連の赤化教育だった。

「軍隊時代、貴様はみんなに暴力をふるった!」

極東・ハバロフスクのラーゲリ(収容所)で、1人の男が壇上の男を糾弾すると他も同調した。

「同感だ!」「この男は反動だ」「つるせ!」-。

天井の梁に渡したロープが壇上の首に回され、男の体が宙に浮いた。

苦悶がにじむ表情に鼻水が垂れ、絶命寸前で男は解放された。

ラーゲリの隣はソ連極東軍総司令部と裁判所。尋問や裁判で連行された将校や下士官がラーゲリに宿泊する度につるし上げた。

「嫌だったが、仕方なかった。そうしないと自分がやられた…」

つるし上げの「議長」(進行役)を務めた元上等兵(90)はこう打ち明けた。

ハバロフスクのラーゲリで「民主運動」という名の赤化教育が始まったのは昭和21年秋。労働を終えた午後7時ごろから1時間ほど、共産党員だった日本人が「共産党小史」を基に講義した。

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 見込みがある者は「小学校」「中学校」と呼ばれる教育機関に入れられ、さらに赤化教育を受けた。

「中学校」を卒業した“優秀者”は、各ラーゲリの選抜メンバーとともに1カ所に集められ、3カ月間教育を受けた。

収容所に戻ると指導的立場となった。

民主運動は次第に過激化し、将校や下士官だけでなく、共産主義に賛同しない者も次々に糾弾された。

日本人同士の密告も横行し、ラーゲリ中に人間不信が広がった。

多くの抑留者が口をつぐむ理由はここにある。

元上等兵は周囲にこう言い聞かせた。

「日の丸の赤と白の部分を頭の中で入れ替えろ。

赤に染まったようにカムフラージュするんだ」

× × ×

ソ連が日本人将兵を抑留したのは「労働力」目当てだったが、途中からアクチブ(活動分子)を養成して日本を共産主義化させようと考えを変えた。

赤化教育に利用したのが、ソ連軍政治部が週3回発行する抑留者向けのタブロイド紙「日本新聞」だった。

編集長はイワン・コワレンコ。

後に対日工作の責任者となり「闇の司祭」と呼ばれた男だった。

共産主義を礼賛し、天皇制や日本の批判を繰り返すプロパガンダ紙だが、日本語に飢えていた抑留者に次第に浸透した。

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 共産主義に賛同し、アクチブと認定されれば、ラーゲリでの処遇が改善され、早く帰還できる。

実に陰湿な心理作戦だが、効果は大きかった。

旧軍の序列を維持しながら助け合ってきた抑留者たちは次第に将校、下士官、兵で反目するようになった。

密告も横行し、相互不信が広がった。

× × ×

関東軍情報将校(少佐)だった山本明(96)=兵庫県芦屋市在住=は昭和20年11月、タタルスタン・エラブガの将校専用のラーゲリに送られた。

23年夏に「ダモイ」(帰還)といわれ、列車に乗せられたが、山本ら情報将校や憲兵約200人はハバロフスクで足止めとなった。

「天皇制打倒」「生産を上げよ」「スターリンに感謝せよ」-。

ラーゲリの入り口にはこんな張り紙がベタベタ張られ、入所者の目には敵意がみなぎっていた。

そこは「民主運動」の最前線だった。

「生きては帰さんぞ…」

入所早々、反ファシスト委員長を名乗る背の低い男は、山本らを高知なまりでこう脅した。

その言葉通りつるし上げが連日続いた。

「言動が反ソ的」「労働を怠けた」-。ほとんど難癖だった。

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平和祈念展示資料館に展示されているシベリアの抑留者収容所の模型 =6日、東京・新宿の平和祈念展示資料館 (大西正純撮影)

 山本も「反動」の烙印を押され、作業中も、食事中も、用便中さえも、大勢に囲まれ、罵倒された。

「日本人は中心をなくすと、これほど崩壊してしまう国民性なのか…」。

悔しいというより悲しかった。

24年春、山本はハバロフスクの監獄に移された。

雑居房でロシア人らと一緒だったが、ラーゲリよりは居心地がよかった。

いつも就寝時にたたき起こされ、取調室に連行される。

長細い室内にポツンと置かれた机の上には炎がついたろうそくが1本。

取調官は引き出しから短銃を出し入れしながら関東軍での任務をしつこく尋問した。

「なぜこの男はおれの戦時中の言動を知っているんだ?」。

取調官の書類をのぞき込みその謎が解けた。

かつての部下が詳細な供述をしていたのだ。

通訳もない裁判が行われ、判決は反ソ諜報罪で強制労働25年だった。

結局、山本が帰国できたのは31年12月26日。

最終引き揚げ者1024人の1人として京都・舞鶴港に降り立った。

すでに37歳。父親と妻、初めて会う長男が出迎えてくれた。長男はもう11歳だった。

32年の正月早々、ある男が神戸市の山本宅を訪ね、玄関先で土下座した。

「隊長、申し訳ありませんでした」

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