【戦後70年~昭和20年夏(6)】なぜシベリア抑留者は口を閉ざしたのか ソ連の「赤化教育」の実態は…「やらねば自分がやられる」NO.2

【戦後70年~昭和20年夏(6)】
なぜシベリア抑留者は口を閉ざしたのか ソ連の「赤化教育」の実態は…「やらねば自分がやられる」NO.2

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平和祈念展示資料館に展示されているシベリアの抑留者収容所の模型 =6日、東京・新宿の平和祈念展示資料館 (大西正純撮影)

 

 密告した部下だった。

山本は積年の恨みをグッとのみ込み、「君も何か言わないと帰国できなかったのだろう」と許した。

山本は当時をこう振り返る。

「人間ってのは怖い。追い詰められた人間の心理は本当に怖いよ…」

× × ×

ソ連は、共産党への忠誠を誓った「誓約引揚者」を優遇帰国させたが、日本を共産主義化させるというもくろみは外れた。

確かに一部は60年安保闘争などで大衆扇動やスパイ活動に従事したが、多くの引き揚げ者は従わなかった。

ソ連で共産党の残虐さと非人道性を嫌というほど味わったからだ。

ただ、赤化教育のトラウマ(心的外傷)は生涯消えなかった。

エニセイスクに収容された独立歩兵第78部隊第1中隊の秋元正俊(96)=栃木県日光市在住=も赤化教育の被害者の一人だ。

秋元は昭和22年のある日、日本新聞で「ロシア語会話通訳試験」の記事を見つけた。

ソ連には憎しみこそあれ共感はない。

日本新聞もまともに読んでなかったが、「通訳になれば重労働から逃れられるかもしれない」と受験してみた。

試験は、日本人試験官と簡単な英会話を交わしただけ。

合格すると「レーニン・スターリンの原理」という分厚い本を渡され、1カ月半の講習を受けた。

終了するとアクチブの証書とバッジを与えられた。

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 ラーゲリでの生活は格段に向上した。

部屋は一般抑留者と分けられ、1日置きの入浴が許された。

食事には副菜がつき、朝食には牛乳、夕食にはウオツカがつき、たばこも週1箱もらえた。

秋元はいつも仲間たちに分け与えた。

ラーゲリ全員に帰還命令が出たのは24年5月初旬。

かつて1千人ほどいた抑留者は400人余りに減っていた。

秋元ら通訳の十数人は「アクチブの教育が不足している」としてハバロフスクで20日間の再教育を受けた後、帰国した。

夢にまで見た帰国だったが、現実は厳しかった。

「アカ(共産主義者)」のレッテルを貼られていたのだ。

秋元は京都・舞鶴港で警察に連行され、独房に40日間入れられ、アクチブの活動内容などについて取り調べを受けた。

ようやく郷里の栃木県に戻っても、自宅裏のクワ畑には警察官がいつも立っていた。

「しまった。ソ連に利用されてしまった…」

秋元は通訳になったことを後悔したが、誤解は解けなかった。

出征前に勤務した小学校を訪ねると校長に「職員室に席は置いてやるが、子供の前には出ないでほしい」と言われ、結局、教壇に立てぬまま退職、実家の農業を継いだ。

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「シベリアでの出来事は何でも思い出せる。それほどつらかった。

あの体験がその後の人生に影響したことは何もない。

ただ、悪い思い出だけが残った…」

(敬称略)

 

【戦後70年~昭和20年夏(6)】なぜシベリア抑留者は口を閉ざしたのか ソ連の「赤化教育」の実態は…「やらねば自分がやられる」

平和祈念展示資料館に展示されているシベリアの抑留者収容所の模型 =6日、東京・新宿の平和祈念展示資料館 (大西正純撮影)

ニュース写真

  • ソ連が抑留者向けに発行していたタブロイド紙「日本新聞」(平和祈念展示資料館所蔵) 

 

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