【戦後70年~昭和20年夏(5)】抑留者が作った極東の街 「ダモイ」夢見て寒さと飢えに耐え カエルの卵食べたらみな死んだ… NO.2
【戦後70年~昭和20年夏(5)】
抑留者が作った極東の街 「ダモイ」夢見て寒さと飢えに耐え カエルの卵食べたらみな死んだ… NO.2
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コムソモリスク・ナ・アムーレ中心部には、日本人抑留者の建てたホテル「アムール」が残る
与えられた食事は黒パン1切れだけ。
空腹を満たすため、ソ連兵の目を盗んでは野草をゆでて食べた。
ある日、「カエルの卵」を持ち帰った者がいた。
飯盒(はんごう)に入れた卵をストーブで炊き、味付けは岩塩。
仲間は大喜びで食べたが、前田はなぜか口に入れる気がしなかった。
翌朝、卵を食べた者は全員死んでいた。
ラーゲリでは時折、健康診断が行われ、健康状態のよい順にA、B、C-とランク分けされ、労働内容が決まった。
前田は歯肉を傷つけ、女医に血の混じった唾液を見せた。しばらくすると朝鮮に移送された。
朝鮮では船への積み込み作業に従事した。
食糧や衣類、家具-。
タンスや畳など日本人のものだと分かる品も多かった。
極寒のシベリアよりは格段にましだったが、休む度にソ連兵にムチで尻をたたかれた。
街を歩くと朝鮮人から日本語で罵声を浴びた。
「兵隊さん、日本なんて国はもうないんだぞ!」
栄養失調で鳥目となり、夜はほとんど目が見えない。
作業の合間に川でヤツメウナギを捕って食べるとほんの少し回復した。
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コムソモリスク・ナ・アムーレ中心部には、日本人抑留者の建てたホテル「アムール」が残る
帰国できたのは昭和23年初夏。
「船に乗れ」と言われ、着いた先は長崎・佐世保港だった。
引揚援護局でわずかな現金をもらってサツマイモを買い、夢中でほお張った。
あの甘さと感激は今も忘れられない。
× × ×
約57万5千人に上る日本人抑留は明確なポツダム宣言(第9項)違反だが、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンの指示により極めて計画的に行われた。
原因は1945(昭和20)年2月、米英ソ3首脳が戦後処理を話し合ったヤルタ会談にある。
ここでスターリンは第32代米大統領のフランクリン・ルーズベルトに対日参戦を約束し、満州や千島列島などの権益を要求したが、もう一つ重要な取り決めがあった。
3カ国外相が署名したヤルタ協定だった。
ドイツが連合国に与えた損害を(1)国民資産(工作機械、船舶など)(2)日常的な生産物(3)労働力-で現物賠償させることを決めた。
問題は「労働力」だった。
米英は、まさかソ連が協定を盾に戦後も捕虜らに強制労働させるとは思っていなかったようだが、ソ連は「米英のお墨付きを得た」と受け取った。
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「それなら炭鉱でドイツ人捕虜を使うことだ。私はそうしている」
スターリンにとって「捕虜=労働力」は「戦利品」だった。
対日参戦の目的は領土拡大だけでなく「労働力」確保にもあったのだ。
ソ連は戦後も400万人以上の外国人捕虜を長期間抑留した。
最も多かったのはドイツの約240万人、次に日本、3番目がハンガリーの約50万人だった。
× × ×
満州国の首都・新京(現長春市)で武装解除に応じた独立歩兵第78部隊第1中隊少尉の秋元正俊(96)=栃木県日光市在住=は昭和20年暮れ、クラスノヤルスク北の炭鉱・エニセイスクのラーゲリに送られた。
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気温が氷点下50度を下回ったある日、公会堂に一時避難するとピアノがあった。
小学教諭だった秋元が「故郷」を弾くと仲間たちは合唱を始めたが、途中から嗚(お)咽(えつ)に変わった。
「ダモイ(帰国)まで頑張ろう!」。これが合言葉だった。
× × ×
第135独立混成旅団伍長、安田重晴(94)=京都府舞鶴市在住=が連行されたのはシベリアの山中のラーゲリだった。
2重の鉄条網に囲まれ、四方に監視塔。丸太小屋には3段ベッドが蚕棚のように並んでいた。
暖房はドラム缶製の薪(まき)ストーブだけ。
電灯もなく松ヤニを燃やして明かりにした。
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食事は朝晩はコウリャンやアワの薄い粥(かゆ)。
昼は握り拳ほどの黒パン。空腹をこらえながら木材伐採を続けた。
2人一組で直径30~40センチの木を切り倒し、枝を落として1メートルの長さにそろえ集積所まで運ぶ。
1日のノルマは6立方メートル。氷点下30度でも作業は続いた。
夜中に「ザザーッ」という不気味な音がすると誰かが死んだ知らせだった。
南京虫(トコジラミ)が冷たくなった遺体を離れ、他の寝床に移動する音だった。
凍土は簡単に掘れない。遺体は丸太のように外に積まれた。
そんな安田らを乗せた帰還船がナホトカを出航したのは23年5月11日。
14日未明、灯台が見えた。「日本だ!」。どこからともなく万歳が上がった。
夜が明けると新緑が広がる京都・舞鶴の山々が見えた。
シベリアのどす黒い針葉樹林とは全く違う。
「山ってこんなにきれいだったのか…」。
全員が涙を浮かべて景色にみとれた。(敬称略)
【戦後70年~昭和20年夏(5)】抑留者が作った極東の街 「ダモイ」夢見て寒さと飢えに耐え カエルの卵食べたらみな死んだ…
コムソモリスク・ナ・アムーレ
ニュース写真
タグ:「山ってこんなにきれいだったのか…」。, 「船に乗れ」と言われ、着いた先は長崎・佐世保港だった。, ある日、「カエルの卵」を持ち帰った者がいた。, やはり食事はパン1切れ。野良犬、ネズミ、ヘビ-。食べられるものは何でも食べた。, コムソモリスク・ナ・アムーレ, コムソモリスク・ナ・アムーレ中心部には、日本人抑留者の建てたホテル「アムール」が残る, シベリアのどす黒い針葉樹林とは全く違う。, スターリンにとって「捕虜=労働力」は「戦利品」だった。, ソ連は戦後も400万人以上の外国人捕虜を長期間抑留した。, 与えられた食事は黒パン1切れだけ。, 作業の合間に川でヤツメウナギを捕って食べるとほんの少し回復した。, 前田は歯肉を傷つけ、女医に血の混じった唾液を見せた。しばらくすると朝鮮に移送された。, 原因は1945(昭和20)年2月、米英ソ3首脳が戦後処理を話し合ったヤルタ会談にある。, 夜中に「ザザーッ」という不気味な音がすると誰かが死んだ知らせだった。, 最も多かったのはドイツの約240万人、次に日本、3番目がハンガリーの約50万人だった。, 武装解除に応じた独立歩兵第78部隊第1中隊少尉の秋元正俊(96), 翌朝、卵を食べた者は全員死んでいた。, 7月のポツダム会談で、チャーチルが英国の炭鉱労働者不足を嘆くと、スターリンは事もなげにこう言った。
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