【戦後70年~昭和20年夏(5)】抑留者が作った極東の街 「ダモイ」夢見て寒さと飢えに耐え カエルの卵食べたらみな死んだ… NO.1
【戦後70年~昭和20年夏(5)】
抑留者が作った極東の街 「ダモイ」夢見て寒さと飢えに耐え カエルの卵食べたらみな死んだ… NO.1
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「親父と同じ苦労をして亡くなった仲間がまだ何万人も残っている。
その遺骨を一人でも多く帰国させることは使命だと思います」
ロシア極東・ハバロフスク地方のコムソモリスク・ナ・アムーレ郊外。
針葉樹の森を分け入った一角で、青森県北津軽郡の会津博(74)は、大量の蚊やブヨが周囲を飛び交う中、黙々と土を掘り続けた。
厚生労働省が実施する旧ソ連による抑留犠牲者の遺骨収集事業。
会津は4度目の参加となる。
ロシア側の資料によると、かつて付近に第3762野戦病院があり、死亡した抑留者200人余りがここに埋葬されたという。
冬は凍土と化す厳しい気候。
長い歳月を経た遺骨はきれいな状態では見つからない。
500平方メートル超の埋葬地を小さく区切って掘り進め、土に不自然な変色が見つかると遺骨がないかを丁寧に確認する。
今回は10日間の作業で39柱を収集し、帰還させた。
会津はこう語った。
「現場を離れる時はいつも残さざるを得ない遺骨を思って涙が出るんです」
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「やっとお父さんを見つけた。お母さんは死んだわ。ここに来られて本当によかった…」
その姿は、戦死した父の墓を80年代に見つけた時の自分と同じだった。
ポタポワはこう語った。
「『埋葬地に来てやっと私にとっての戦争が終わった』と言われるのが何よりもうれしい。
この問題に国籍は関係ありません」
× × ×
コムソモリスクには1945(昭和20)年~49(昭和24)年にかけ、日本人約1万5千人が抑留された。
満足な食事も与えられぬ中、日本人はよく働き、ホテル、学校、住宅など432の建物を建築した。
街の中心部のホテル「アムール」は内部こそ改装されたが、今もなお現役。
同じく日本人が建てた2階建て集合住宅群に住む元調理師のタマーラ・ボブリク(68)はこう語った。
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地元郷土史家のマリーナ・クジミナは「当時を知っている人は、いかに日本人が仕事熱心だったかを知っている。悪く言う人などいない」と説明した。
× × ×
45年8月9日午前0時(日本時間)、日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連軍80個師団157万人が満州や朝鮮、千島列島などに一斉侵攻した。
日本軍の多くは15日のポツダム宣言受諾後、武装解除に応じたが、悲劇はそれで終わらなかった。
ソ連軍は、満州や朝鮮などから約57万5千人をシベリアやモンゴルなどに連行し、森林伐採や鉄道敷設などの重労働を強いた。
飢えと寒さ、虐待などで約5万5千人が命を落とした。
だが、シベリア抑留はロシアでほとんど認知されておらず、抑留者は「軍事捕虜」と称される。
この大雑把な認識はロシア人自身が、対独戦とスターリン時代の弾圧で膨大な犠牲者を出したことに根ざす。
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クジミナはソ連末期、閲覧可能になったロシア人の弾圧犠牲者の資料を調べる中で「囚人」に交じって日本人が強制労働させられたことを初めて知った。
「極東は辺境なので働きたいという人は少ない。
それでも国土維持のための労働力が必要だということで政治弾圧された人々が囚人として送り込まれた。
ソ連政府は囚人をただ働きさせるのと同じ発想で日本人を抑留したのではないか」
ロシア政府は、日本人抑留者のうち1万5千人以上に関する資料をなお開示していない。
未収集の遺骨は3万3千柱超。戦後70年を経て遺骨収集は年々困難になりつつある。
× × ×
十字架が並ぶ墓地、木材を積んだ汽車-。
見慣れない風景だった。
「こりゃ、だまされた。日本じゃないどこかに連れて来られたぞ」
独立歩兵第62部隊上等兵、前田昌利(93)=宇都宮市在住=は千島列島・幌筵(ほろむしろ)島で終戦を知った。
ソ連軍がいつ島に上陸したのかは分からない。
交戦で数人の死傷者が出たが、ソ連軍の通訳に「もう戦争は終わった」と言われ、武装解除に応じた。
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コムソモリスク・ナ・アムーレ中心部には、日本人抑留者の建てたホテル「アムール」が残る
前田も「おかしい」とは思っていた。
数週間前から連日のように米軍機が島の上空を旋回するようになったからだ。
赤いマフラーの女性を同乗させ、遊覧飛行する米軍機もあった。
ソ連兵の「トウキョウ ダモイ(帰国)」という言葉を信じ、輸送船に乗り込んだが、ナホトカ港を経由して連行された先はコムソモリスクのラーゲリ(収容所)だった。
× × ×
ラーゲリでは、木材の伐採作業や線路の敷設工事を命じられた。
重労働もつらかったが、もっと怖かったのは凍傷だった。
鼻や耳が白くなり、壊死(えし)して黒くなると切り落とすしかない。
仲間と「おーい、白いぞ」と声をかけ合い、互いにマッサージした。
時計などの持ち物はソ連兵に取り上げられた。
ソ連の女性兵は、日本人から奪った歯磨き粉をうれしそうに顔に塗っていた。
ソ連兵の制服はボロボロ。
缶詰にはUSAの刻印があった。
「ソ連もよほど物資がないんだな」と思った。
【戦後70年~昭和20年夏(5)】抑留者が作った極東の街 「ダモイ」夢見て寒さと飢えに耐え カエルの卵食べたらみな死んだ…
コムソモリスク・ナ・アムーレ
ニュース写真
タグ:コムソモリスクには1945(昭和20)年~49(昭和24)年にかけ、日本人約1万5千人が抑留された, ソ連兵の制服はボロボロ。, ソ連政府は囚人をただ働きさせるのと同じ発想で日本人を抑留したのではないか」, ラーゲリ(収容所)だった。, 今回は10日間の作業で39柱を収集し、帰還させた。, 冬は凍土と化す厳しい気候。, 日本軍の多くは15日のポツダム宣言受諾後、武装解除に応じたが、悲劇はそれで終わらなかった。, 未収集の遺骨は3万3千柱超。戦後70年を経て遺骨収集は年々困難になりつつある。, 満足な食事も与えられぬ中、日本人はよく働き、ホテル、学校、住宅など432の建物を建築した。, 独立歩兵第62部隊上等兵、前田昌利(93), 缶詰にはUSAの刻印があった。, 重労働もつらかったが、もっと怖かったのは凍傷だった。, 針葉樹の森を分け入った一角で、青森県北津軽郡の会津博(74)は、大量の蚊やブヨが周囲を飛び交う中、黙々と土を掘り続けた。, 飢えと寒さ、虐待などで約5万5千人が命を落とした。
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