【戦後70年~昭和20年夏(3)】慰霊の心置き去りに 原爆ドーム横で「安倍は出ていけ!」 原水爆禁止運動は社共の主導で政治闘争化 NO.1

【戦後70年~昭和20年夏(3)】
慰霊の心置き去りに 原爆ドーム横で「安倍は出ていけ!」 原水爆禁止運動は社共の主導で政治闘争化  NO.1

(1/9ページ)【戦後70年~昭和20年夏

原爆投下から70年を迎えた広島市は最高気温35・5度と今夏一番の暑さとなったが、平和記念公園への慰霊の足並みは途絶えることがなかった=6日午後、広島市中区(甘利慈撮影)

 

 8月6日の広島は70年前と同じ雲一つない夏空が広がった。

原爆投下時刻と同じ午前8時15分、広島市では至る所でサイレンが鳴り響き、多くの人が頭を垂れた。

平和記念公園では平和の鐘が厳かに鳴り、「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)の参列者約5万5千人(市発表)が黙祷をささげた。

「1発の原子爆弾により十数万もの貴い命が奪われ、街は廃虚と化しました。

一命をとりとめた方々にも言葉に尽くしがたい辛苦の日々をもたらしました。

被爆70年を迎え、私は改めて平和の尊さに思いを致しています」

首相、安倍晋三は式典でこう語り、犠牲者に哀悼の意をささげた。

被爆者の平均年齢はついに80歳を超えた。

原爆の惨禍を代々に語り継いでいくためにも8月6日の祈りは欠かせない。

だが、式典会場の外は少し様相が違った。

午前7時、元安川の対岸にある原爆ドーム前には「戦争法阻止! 再稼働反対! ヒロシマの怒りで安倍を倒せ」と記した幅10メートルの横断幕が掲げられ、男女500人が集結した。

 

(2/9ページ)【戦後70年~昭和20年夏

 「婦人民主クラブ」「関西合同労組」「京大同学会」などののぼりがたなびく中、男女が次々にマイクを握り、怒声を上げた。

「戦争を進めようとする安倍は人間じゃない。命を冒涜(ぼうとく)する安倍政権を絶対に許さない!」

「安倍が原発再稼働のスイッチを押した瞬間、『おまえはもう死んでいる』と言いたい」

「安倍を広島からたたき出す日にしよう」-。

周辺は多数の警察官が警戒にあたり、物々しい雰囲気。

制服姿の高校生が核兵器廃絶を求める署名集めをしていたが、その呼びかけも集会のマイク音にかき消された。

集会が終わると、参加者は「安倍を倒せ」「原発をなくせ」などとシュプレヒコールを上げ、デモ行進した。

平和記念公園では、他にも複数の団体が政治アピールを続けた。

原爆投下時刻の8時15分には「ピースサイクル」など複数の護憲団体のメンバー百数十人が路上にいきなり寝転がった。

抗議行動「ダイ・イン」。

よく見ると寝転んだままスマホをいじっている男性もいた。

(3/9ページ)【戦後70年~昭和20年夏

原爆投下から70年を迎えた広島市は最高気温35・5度と今夏一番の暑さとなったが、平和記念公園への慰霊の足並みは途絶えることがなかった=6日午後、広島市中区(甘利慈撮影)

 そんな喧噪(けんそう)の中、89歳の男性は原爆ドーム前の慰霊碑に手を合わせた。

親類や友人を原爆で亡くし、毎年続けているという。

「今日は静かに祈りをささげる日。県外から来てやかましくされるのは困ります。ここ数年は特にやかましいね…」

残念ながら被爆者団体にも慰霊より政治アピールを優先する動きがある。

安倍は式典終了後、広島市内のホテルで被爆者団体代表者らと面談した。

被爆者援護施策などを陳情する場だが、広島被爆者団体連絡会議事務局長の吉岡幸雄はいきなり安保法案の批判を始めた。

「憲法の破壊は日本を戦争する国に変え、再び戦争の悲劇を招く。

原爆死没者が安らかに眠れるよう重ねて法案の撤回を求めます」

広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会事務局長の中谷悦子も「戦争の結果として原爆があった。

国民を戦争に巻き込む恐れのある安保法案の即時断念を願います」と詰め寄った。

安倍は「国民の命と平和な暮らしを守るために平和安全法案は必要不可欠です。

これからも丁寧に分かりやすい説明を行いたい」と応じたが、2人は納得できない様子だった。

いつから8月6日は政治アピールの日に変わってしまったのか-。

(4/9ページ)【戦後70年~昭和20年夏

 昭和20年8月6日午前8時15分。

広島市中心部の上空600メートルで、米軍B29爆撃機「エノラゲイ」が投下したウラン型原爆「リトルボーイ」が炸裂した。

衝撃波と爆風が半径2キロを瞬時に壊滅させ、その後の大火災で13平方キロが灰燼に帰した。

20年12月末までの死者数は14万人と推計される。

3歳だった中尾建三(73)は爆心地から3・1キロの郵便局に母親とおり、幸い大きなけがはなかった。

数時間後、市街地で被爆した住民がぞろぞろと帰ってきた。

ひどい火傷を負い、多くが泣いていた。

翌7日、母親は市街地に住む妹を心配して見に行ったが、一帯は火の海で近づけなかった。

妹は倒壊した家屋の下敷きとなり、幼い子供2人を抱きながら炎にまかれ死亡したという。

中尾の隣家の女学生も大火傷を負い、「痛い、痛い」という声が昼夜続いたが、数日後に途絶えた。

市民の多くがこのようなつらく悲しい経験をしたが、戦後しばらくは生きていくのがやっと。

反核平和運動は盛り上がらなかった。

24年に開かれた平和市民集会は300人規模にすぎない。

それが終戦から9年後、ある事件を契機に運動に火が付いた。

(5/9ページ)【戦後70年~昭和20年夏

原爆投下から70年を迎えた広島市は最高気温35・5度と今夏一番の暑さとなったが、平和記念公園への慰霊の足並みは途絶えることがなかった=6日午後、広島市中区(甘利慈撮影)

 29年3月1日未明、米国が南太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行い近くで操業中だった日本の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が被爆、無線長の久保山愛吉が半年後に死亡した。

 「魚が食べられなくなる」という風評が広がり、客足の途絶えた東京都杉並区の魚商が、原水爆禁止を求めて署名活動を開始すると瞬く間に広がった。

 翌30年8月6日に広島市で開かれた第1回原水爆禁止世界大会には5千人超が参加、政党・宗派を超えて核廃絶に取り組むことを宣言した。

原水爆禁止を求める署名は日本で3238万人、世界で6億7千万人分集まったと報告された。

 大会終了後、実行委員会は「原水爆禁止日本協議会」(原水協)と名称変更し、翌31年には長崎で第2回大会を開いた。

 だが、共産、社会両党の主導により、反核平和運動が政治運動へと変質するのに時間はかからなかった。

 35年の日米安保条約改定では、原水協は、社会党と総評(日本労働組合総評議会)が主導する安保改定阻止国民会議に加わり、安保闘争の中核を担った。

同年に東京で開いた第6回大会では「帝国主義的政策をとる勢力など平和の敵を圧倒するため団結し戦おう」と宣言。

保守系団体は運動から離れていった。

 東京の大学に通っていた中尾は、下宿までオルグに来た同級生に「米国の核は汚れた核だが、ソ連の核はきれいな核だ」と真顔で諭され、あきれた。

 「米ソの核が違うわけない。バカじゃないか…」

コメントを残す

サブコンテンツ

ブログの殿堂

ブログランキング

ブログ王

ブログ王ランキングに参加中! カテゴリー:芸術と人文/歴史

i2i

サイト内ランキング



フラッシュカウンター


忍者画像人気記事


このページの先頭へ