【戦後70年~昭和20年夏(2)】日系米国人たちの8月14日 2つの祖国に揺れる心 収容所の過酷な日々「仕方ないんだから…」NO.1
【戦後70年~昭和20年夏(2)】
日系米国人たちの8月14日 2つの祖国に揺れる心 収容所の過酷な日々「仕方ないんだから…」NO.1
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整列する日系人部隊、第522野戦砲兵大隊の兵士たち(ススム・イトウさん撮影、撮影場所不明)
1945(昭和20)年8月14日(日本時間15日)、26歳だったカリフォルニア州ストックトン出身の日系2世、ススム・イトウは、独ミュンヘン近くの兵営のラジオ放送で日本の降伏を知った。
「ああ、やっと戦争が終わったのか…」
うれしくないわけではないが、大喜びする気にもなれない。
そんな複雑な気持ちだった。
5月8日のドイツ降伏後、イトウが気がかりだったのは、対日戦への転戦を命じられることだった。
両親の母国であり、親族が日本軍にいると聞いていたからだ。
41(昭和16)年12月7日(日本時間8日)の真珠湾攻撃を受け、第32代米大統領のフランクリン・ルーズベルトは米議会で「合衆国は日本軍の意図的な攻撃に突然さらされた。
12月7日は屈辱の日となった」と演説し、宣戦布告を求めた。
米国では「リメンバー・パールハーバー」が合言葉となった。
42(昭和17)年2月19日、ルーズベルトは大統領令9066号を発し、陸軍省に強制的な立ち退きを命じる権限を与えた。
これにより、米西海岸のカリフォルニア、オレゴン、ワシントン各州の日系人約12万人は「敵性外国人」として10カ所の収容所に送られた。
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日系1世は「2つの祖国」のどちらに忠誠を誓うか迫られた。
日系2世は父母の誤解を解くためにも次々に軍を志願した。
陸軍情報部(MIS)で日本語の翻訳や通訳に従事する者も多かったが、イトウは「兵士は危険を冒して戦うものだ」と考え、40(昭和15)年に陸軍に入隊。
士官以外はほとんど日系人で構成される第442連隊戦闘団隷下の第522野戦砲兵大隊に弾着観測手として配属され、欧州戦線に送られた。
44(昭和19)年10月のテキサス大隊救出作戦にも従事した。
フランス東部で独軍に包囲された米兵211人を救うために442連隊は216人が戦死、600人以上が負傷した。
522大隊から作戦に加わり、無傷だったのはイトウら25人だけだった。
日系人部隊の犠牲を厭わぬ米国への忠誠心の裏側には、収容所にいる父母や兄弟への思いがあったに違いない。
イトウは、母が「武運長久」を祈って縫ってくれた千人針を制服の胸ポケットに入れて戦った。
母を心配させまいと自動車整備の任務とうそをつき、平和な写真ばかりを手紙に添えた。
「母の千人針が私を帰還させてくれた。
それ以外、私の幸運を説明するすべはありません…」
現在96歳になるイトウはこう語った。
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第42代米大統領のビル・クリントン、第43代大統領のジョージ・ブッシュの2代で商務、運輸両長官を務めたノーマン・ミネタ(83)も42年、ワイオミング州ハートマウンテンの収容所に送られた。
父が語学兵養成の任務に就いたため、ミネタ一家は終戦前に収容所を出ることができたが、兄のアルバートはMIS語学兵としてフィリピンに向かった。
静岡県に住む両親の親族たちの消息も気がかりだった。
45年8月14日、終戦を知った時の母の安堵の表情をミネタは今も覚えている。
「8月14日は私たちにとっても特別な日です。連合国が日本を破ったというニュースがラジオで繰り返し流されました。私はとてもうれしかった…」
× × ×
カリフォルニア州ロサンゼルス市からモハーベ砂漠を車で4時間。
シエラネバダ山脈を望む荒涼とした大地に大戦中、マンザナー収容所が作られ、1万人以上の日系人が収容された。
収容所は鉄条網に覆われ、監視塔から銃を手にした看守が目を光らせた。ここに建立された慰霊碑に刻まれた「満砂那」という当て字が、ここでの生活の過酷さを物語る。
日系人収容所はこのような不毛な地に作られた。
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サンフランシスコ市出身のマリー・ムラカミ(88)は家族とともにユタ州の砂漠にあるトパーズ収容所に送られた。
ムラカミ家7人にあてがわれたのは、すきま風が吹きすさぶバラックの2部屋。
隣室と隔てる壁は天井に届かず、隣人のささやき声まで聞こえた。
支給されたのは家族7人分の軍用寝台と毛布、石炭ストーブだけ。
テーブルや机などは廃材で自ら作った。
食事はパンが主食の米国流で子供だけで食堂で食べ、家族そろって食事できるのは日曜日だけだった。
そんなある日、ジェームズ・ハツアキ・ワカサが看守に射殺された。
63歳の日系1世だった。
鉄条網に近付きすぎ、看守が制止したが、きつい南部なまりを理解できなかったのだ。
言葉も生活も米国流で育てられ、白人とともに育ったムラカミは生涯忘れえぬショックを受けた。
父が農場で得る給与は月19ドル。生活は苦しくバラックの周りでモヤシを作った。
土壌が悪く野菜が育たないため、水だけで育つモヤシは貴重だった。
ムラカミの母は日本語でこう繰り返した。
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