【戦後70年~昭和20年夏(2)】日系米国人たちの8月14日 2つの祖国に揺れる心 収容所の過酷な日々「仕方ないんだから…」NO.2

【戦後70年~昭和20年夏(2)】
日系米国人たちの8月14日 2つの祖国に揺れる心 収容所の過酷な日々「仕方ないんだから…」NO.2

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整列する日系人部隊、第522野戦砲兵大隊の兵士たち(ススム・イトウさん撮影、撮影場所不明)

 「我慢して。仕方がないんだから…」

年を経るにつれ、収容所の生活は次第に改善されていったが、カリフォルニア州など西海岸諸州では終戦の年まで日系人が解放されることはなかった。

× × ×

1943(昭和18)年2月、収容所の日系人に米政府から質問状が届いた。

《質問27》あなたは進んで合衆国軍隊のため、どこでも命令された場所で戦闘任務につきますか?

《質問28》あなたは合衆国に無条件の忠誠を誓い、日本の天皇や外国政府、組織へのいかなる形の忠誠も否定すると誓いますか?

日系人の米国への忠誠心を確認するための「忠誠登録」だった。

いずれ日本に帰ろうと思っていた人や、収容所の不当な扱いに不満があった人たちは2つの質問に「ノー」と答えた。

いわゆる「ノーノー組」は、寒さの厳しいカリフォルニア州北部のツーリレイク収容所に送られた。

「朝からみんなハチマキをして『ワッショイ、ワッショイ』と訓練するんです。

日本に帰ったらお国のために尽くさなければならないと思ったのでしょう」

現在ワシントン郊外に住むレイコ・マツモト(86)はツーリレイクでの生活をこう振り返る。

 

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 マツモトの父、大舘誓(ちこう)は浄土真宗の開教師として広島からハワイに渡り、真珠湾攻撃の翌日、連邦捜査局(FBI)に逮捕された。

他の地域のリーダー格と同様に日本政府や軍との関係を疑われたからだった。

一家が再会するのは43年6月、アーカンソー州ジェロームの収容所だった。

ところが、大舘は忠誠登録で「ノー」と答え、44年8月にツーリレイク送りとなり、家族全員そこで終戦を迎えた。

大館はお寺の次男坊。

いずれ日本に帰るつもりだったので「裏切り者」になりたくなかったのだ。

だが、娘らは違った。

マツモトは8月14日にラジオで日本の敗戦と終戦を知り、「米国人として本当にうれしかった」。

大舘は終戦直後、赤十字社から原爆で実家の寺が全壊し、母も犠牲になったことを知り、帰国をあきらめた。

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 終戦後も米国での日系人への差別と偏見は続いた。

そんな中、第442連隊戦闘団はこれを払拭するのに大きな役割を果たした。

「諸君は敵だけではなく偏見とも戦った。そして勝利した!」

日本嫌いで知られた第33代大統領、ハリー・トルーマンでさえ、46年7月にワシントンで第442連隊をこうねぎらった。

だが、本当の名誉回復は第40代大統領のロナルド・レーガンの登場を待たねばならなかった。

レーガンは1988年、「市民の自由法」に署名、大戦中の日系人収容の誤りを認めて謝罪し、補償を約束した。

2011年には、第442連隊戦闘団など日系人部隊に、米国で最も権威がある勲章の一つである議会金メダルが贈られた。

その陰には、市民の自由法制定に奔走した日系人初の上院議員、ダニエル・イノウエ(故人)をはじめ、戦後も一貫して米国社会に貢献してきた日系人の地道な努力があったことは言うまでもない。

(敬称略)

 

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