【戦後70年~昭和20年夏(1)】街が一瞬で消えた…紫電改操縦士が見た原爆の惨禍 トルーマンが突きつけたポツダム宣言の真意とは… NO.2
【戦後70年~昭和20年夏(1)】
街が一瞬で消えた…紫電改操縦士が見た原爆の惨禍 トルーマンが突きつけたポツダム宣言の真意とは… NO.2
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ポツダム宣言は、7月17日~8月2日にベルリン郊外のポツダムで行われたトルーマン、チャーチル、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンとの会談の最中に発表された。
すでにソ連は対日参戦に向け、着々と準備を進めていたが、スターリンは名を連ねていない。
当時、日本外務省と在ソ大使館の暗号電文は解読されており、日本が日ソ中立条約を信じてソ連に和平の仲介役を求めてくることが分かっていたからだ。
トルーマンも、その方が原爆投下まで時間を稼げると考えたようだ。
× × ×
第32代米大統領、フランクリン・ルーズベルトが、軍と科学者を総動員して原爆製造の「マンハッタン計画」をスタートさせたのは42(昭和17)年8月だった。
当初はドイツへの使用を想定していたが、44年9月には日本に変更した。
秘密主義者のルーズベルトは、副大統領だったトルーマンにも計画を教えなかった。
45年4月12日にルーズベルトが死亡し、後を継いだトルーマンはスティムソンから計画を聞かされ、さぞ驚いたに違いない。
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すでに原爆は完成間近で4月27日の目標検討委員会の第1回会合では、日本の17都市を「研究対象」に選定した。
5月11日の第2回会合では、京都、広島、横浜、小倉の4カ所を目標に選んだ。
原爆の効果を正確に測定するため、4都市への空襲は禁止された。
7月に入ると、B29爆撃機による投下訓練が始まり、ファットマンとほぼ同一形状、同一重量の爆弾「パンプキン」が目標都市周辺に次々と投下された。
米公文書によると、米軍内で広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに原爆を投じるよう命令書が出たのは7月25日だった。
ということは、トルーマンはポツダム宣言発表前に原爆投下を命じていたことになる。
× × ×
トルーマンはなぜこれほど日本への原爆投下にこだわったのか。
ポツダム宣言発表時、海軍の戦艦、空母など主力部隊は壊滅に近く、制空権、制海権はほぼ失われ、日本陸海軍は戦闘機による特攻などでわずかな抵抗を続けているにすぎなかった。
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B29爆撃機はほぼ連日空襲を続け、ほとんどの都市は焼け野原と化し、首都・東京も市街地の5割強が焼失。
原爆を使用せずとも降伏は時間の問題だった。
米政府内でもスティムソンやグルー、海軍長官のジェームズ・フォレスタル、陸軍参謀総長、ジョージ・マーシャルらは原爆投下に反対していた。
太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツや、太平洋陸軍総司令官のダグラス・マッカーサーは原爆の存在さえ知らなかった。
トルーマンに同調したのは国務長官のジェームズ・バーンズだけといってもよい。
それでもトルーマンを原爆投下に突き進ませたのは、ルーズベルトが45年2月にスターリンと結んだヤルタ密約の存在が大きい。
スターリンは、ルーズベルトに対し、ドイツ降伏後3カ月以内にソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦に踏み切ることを約束。
見返りとして南樺太や千島列島の引き渡しや、満州の鉄道・港湾権益を要求した。
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そもそも日米が開戦に至る対立は満州・中国での権益争いに始まったことを考えると本末転倒だといえるが、すでに病が悪化していたルーズベルトはスターリンにまんまと乗せられた。
トルーマンは大統領就任後、金庫から出てきたヤルタ密約を見て驚愕(きょうがく)したという。
ポーランドやドイツの統治をめぐってもソ連との対立はすでに顕在化していた。
トルーマンは「戦後のソ連との覇権争いで優位に立つには原爆しかない」と考えたとみられる。
こうして8月6日、広島に原爆が投下された。
慌てたソ連は8日に日本に宣戦布告。
9日には長崎に原爆が投下され、2都市で計21万人の尊い命が失われた。
日本政府は、昭和天皇の聖断により、14日深夜にポツダム宣言を受諾した。
広島への原爆投下をマニラで知ったマッカーサーは記者にこう語った。
「これであらゆる戦争は終わった。戦争はもはや勇気や判断にかかわる問題ではなくなり、科学者の手に委ねられた。もう戦争は起こらないのだ」
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トルーマンは死ぬまで自らの行為を正当化し続けた。
58(昭和33)年2月、米テレビで原爆投下についてこう語った。
「日本への上陸作戦には150万人の兵力が必要で25万人が戦死すると推定された。
だから強力な新兵器を使用するのに何ら良心の呵責(かしゃく)を感じなかった。
夜もぐっすり眠れた…」
(敬称略)
【戦後70年~昭和20年夏(1)】街が一瞬で消えた…紫電改操縦士が見た原爆の惨禍 トルーマンが突きつけたポツダム宣言の真意とは…
ドイツ・ポツダムでの首脳会議の合間に、スターリン・ソ連首相(左)の宿舎を訪問したトルーマン米大統領=1945年7月24日(AP)
タグ:トルーマンは大統領就任後、金庫から出てきたヤルタ密約を見て驚愕(きょうがく)したという。, トルーマンも、その方が原爆投下まで時間を稼げると考えたようだ。, フランクリン・ルーズベルトが、軍と科学者を総動員して原爆製造の「マンハッタン計画」, ポツダム宣言は、7月17日~8月2日にベルリン郊外のポツダムで行われたトルーマン、チャーチル、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンとの会談の最中に発表された。, 原爆を使用せずとも降伏は時間の問題だった。, 日本への上陸作戦には150万人の兵力が必要で25万人が戦死すると推定された。, 見返りとして南樺太や千島列島の引き渡しや、満州の鉄道・港湾権益を要求した。, 5月11日の第2回会合では、京都、広島、横浜、小倉の4カ所を目標に選んだ。, 9日には長崎に原爆が投下され、2都市で計21万人の尊い命が失われた。, B29爆撃機はほぼ連日空襲を続け、ほとんどの都市は焼け野原と化し、首都・東京も市街地の5割強が焼失。
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