【天皇の島から 戦後70年・序章(1)前半】時を超え眠り続ける「誇り」 集団疎開させ、島民を守った日本兵
【天皇の島から 戦後70年・序章(1)前半】
時を超え眠り続ける「誇り」 集団疎開させ、島民を守った日本兵
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パラオ共和国のウルクタープル島沖に沈む、“零戦”として知られる零式艦上戦闘機。
台風や潮の影響で、年々その姿を変えている=12月14日、パラオ共和国・ウルクタープル島沖(写真報道局 松本健吾)
先の戦争が終結してから今年で70年を迎える。
産経新聞では年間を通じ、「戦後70年」を紡いでいく。
序開きとして、天皇陛下と日本を考えてみたい。
天皇、皇后両陛下は今年、パラオ共和国を慰霊のため訪問される。
パラオは昭和20年までの31年間、日本の統治下にあり、ペリリュー島は日米間で壮絶な地上戦が繰り広げられたが、島民が犠牲になった記録はない。
両陛下の念願だったとされるパラオご訪問を前に、米軍が「天皇の島」と呼んだ南洋の小島から歩みを始める。(編集委員 宮本雅史)
平成26年12月初旬、ペリリューは、島を覆うジャングルが強い日差しを受けて緑に輝いていた。
島民600人の多くが住む北部のクルールクルベッド集落は、ヤシの木に囲まれた庭の広い民家が立ち並び、カフェからは英語の音楽が流れる。
ハイビスカスが咲き、のどかな雰囲気に時間が止まっているような錯覚すら覚える。
だが、ジャングルを縫うように車を走らせるに従って、そんな印象は一変する。
破壊された米軍の水陸両用戦車、日本軍戦車、52型零式艦上戦闘機…。至る所に激戦の爪痕が残る。
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「米の予想上回る抵抗」
米軍がペリリューに上陸したのは昭和19年9月15日。
人員で守備部隊の4倍、小銃は8倍、戦車は10倍という圧倒的な布陣を敷いた米軍は、島の攻略についても、
「スリーデイズ、メイビー・ツー(3日、たぶん2日)」と豪語していたという。
だが、その予想は大きく裏切られる。
米軍は第1次上陸作戦で第1海兵連隊の損害が54%に達したため、第1海兵師団が撤収、第7海兵連隊も損害が50%を超えて戦闘不能に陥った。
「軽機関銃の銃身が熱くてさわれないくらい夢中に撃ちまくった。
敵味方入り乱れて、殺したり殺されたりの白兵戦で、地獄絵図そのものだった」
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そう述懐する水戸歩兵第2連隊の元軍曹、永井敬司さん(93)は、数少ない生還者の一人だ。
「食糧や弾丸がすぐに底をついた。
空からも海からも補給はなく、米軍の食料や戦死した米兵から武器と弾薬を奪った。
3日も4日も寝ないで戦った」と語る。
「最高の戦闘損害比率」
日本軍の執拗(しつよう)な抵抗に、太平洋艦隊司令長官のニミッツ海軍大将は著書『太平洋海戦史』で、「ペリリューの複雑極まる防衛に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を出した」と述べている。
守備部隊がいかに激しい戦闘を展開したかを物語るが、永井さんは、想像を絶する環境の中で気持ちを支えたのは「第2連隊で教育を受けたという誇りと、日本を守るという意地だった」と胸を張った。
『昭和天皇発言記録集成』(防衛庁防衛研究所戦史部監修)によると、昭和天皇は『水際ニ叩キツケ得サリシハ遺憾ナリシモ順調ニテ結構テアル。
「ペリリュ」モ不相変ラスヨクヤッテヰルネ』(10月23日)『「ペリリュー」補給困難ニナリ軍ハアマリ長ク抵抗ガ…。
随分永イ間克ク健闘シ続ケテ呉レタ』(11月15日)-と述べるなど島の戦況を気に掛け、守備部隊の敢闘に11回、御嘉賞(お褒め)の言葉を送っている。
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「誇りをかけた戦い」
平成8年6月17日、靖国神社で開かれたシンポジウム「ペリリュー戦 日米両軍の勇戦を讃える会」に、
ペリリュー戦に参戦した元米軍のエド・アンダウッド元大佐とコードリン・ワグナー氏の姿があった。
『昭和の戦争記念館 第3巻 大東亜戦争の秘話』(展転社刊)によると、アンダウッド氏は「日本軍は負けると判っている戦争を最後まで戦った。
この忠誠心は天皇の力と知って、ペリリュー島を“天皇の島”と名付けた」と述べ、ワグナー氏も「日本軍人の忠誠心に最高の敬意を表す」と語っている。
これら2人の言葉を裏付けるように、米第81歩兵師団長のミュウラー少将は、日本軍の抵抗が終わった昭和19年11月27日、「いまやペリリューは、天皇の島から我々の島に移った」と宣言したという。
米軍に「天皇の島」と言わしめたペリリューでの戦闘は、日本軍将兵が日本と日本人の誇りをかけた象徴的な戦いでもあった。
◇ ◇
パラオ共和国 赤道に近い太平洋上に位置し、大小500以上の島を抱える。総面積は488平方キロ。
1920年(大正9年)、第1次世界大戦後に日本の委任統治下に。
先の戦争後、米国の統治下に入ったが、94年(平成6年)に共和国として独立。
10島に人が住み、人口は約2万920人(外務省ホームページから)。
委任統治時代、日本はパラオに南洋群島全体を管轄する南洋庁本庁を設置。
パラオには学校や病院、気象台、郵便局などが建設されたほか道路などインフラも整備された。
最盛期の43年(昭和18年)には2万7444人の日本人が住んでいた。
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パラオ共和国のウルクタープル島沖に沈む、“零戦”として知られる零式艦上戦闘機。
台風や潮の影響で、年々その姿を変えている=12月14日、パラオ共和国・ウルクタープル島沖(写真報道局 松本健吾)
◇
「ぺリリュー島の戦い」
パラオ群島にある南北約9キロ、東西約3キロ、面積約13平方キロのサンゴ礁の島。
先の戦争では、マリアナ・パラオ諸島の戦いの中心地となり、昭和19年9月15日から74日間にわたり、日本軍守備隊と米軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた。
戦史叢書「中部太平洋陸軍作戦」(防衛庁防衛研修所戦史室著)によると、戦闘は、日本軍9838人に対して米軍は約4万2千人で始まり、日本軍は最終的に1万22人の戦死者と446人の戦傷者を出して玉砕。
米軍も1684人の戦死者と7160人の戦傷者を出した。
日本軍は34人が生還した。
【天皇の島から 戦後70年・序章(1)前半】時を超え眠り続ける「誇り」 集団疎開させ、島民を守った日本兵
ペリリュー島にある戦没者慰霊碑「みたま」=12月10日、パラオ共和国・ペリリュー島(松本健吾撮影)
(4/5ページ)【昭和天皇の87年】
俊足の小型艦が敵の大型艦を追い回し、夜陰に乗じて肉薄する様子を、参戦した第41号水雷艇長の水野広徳が戦記文学の名著「此(この)一戦」に書く。
「(味方の負傷者を)顧みる暇(いとま)も、助くる暇(ひま)もない。
唯(ただ)驀進(ばくしん)! 唯猛進! やがて敵艦上に於ける喧噪叱咤を聞き得るに至れば、距離は已に二百米突(メートル)以内である。
敵の艦腹を狙つて発射管の電鍵(でんやく)一(ひと)たび圧すれば、シューッ。
一条の白線を海面に描きつヽ波を潜つて進み行く魚形水雷、一個! 二個!! 三個!!!」
「幾(いくば)くもなく轟然海も覆(くつがえ)るばかりの爆音と共に、船体がピリヽと振動すれば、俄(にわか)に起る萬歳の声。命中ッ!」
敵艦が狂乱して海面を猛射する中、駆逐艦隊と水雷艇隊の攻撃は、前方から後方から、一隊去ってはまた一隊と繰り返され、戦艦2隻、巡洋艦4隻を大破撃沈した。
このうち戦艦を沈めた第4駆逐隊の司令は、のちの首相、鈴木貫太郎である。
明けて28日、ウラジオストクに向けて遁走するバルチック艦隊は、戦艦2隻、装甲海防艦2
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(※1)アルファベットの最後の文字であるZ旗は、もうあとがないという意味で、必勝を期して掲げられることがあった。1805年のトラファルガー海戦で英国艦隊提督のネルソンが、「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」との信号旗とともに、Z旗を旗艦のマストに掲揚したのが初例。これにより士気を高め、敵艦隊を撃破したネルソンに習い、東郷もZ旗に「皇国ノ興廃 此ノ一戦ニアリ 各員一層奮励努力セヨ」の意味をつけて掲げた。以後、日本海軍にとってZ旗は格別な意味を持つようになり、先の大戦でも主要な海戦で掲揚されている。もっとも平時における国際信号旗としてのZ旗の意味は「引き船を求む」、漁船の場合は「投網中である」で、必勝とは無関係。
◇
【参考・引用文献】
○軍令部編『明治三十七八年海戦史』
○同『極秘明治三十七八年海戦史』
○田中宏巳著『東郷平八郎』(筑摩書房)
○北沢法隆著「再考東郷ターン」(日本海事史学会『海事史研究』第58号所収)
○ウラジミル・セメヨノフ著『日本海大海戦 殉国記』(明治出版)
○秋山真之講演録「日本海々戦の回想」(実業之日本社『軍談』所収)
○水野広徳著『此一戦』(博文館)
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