【天皇の島から 戦後70年・序章(5)後半】沖縄への深い思い、琉歌に詠まれ ご共感、歴史や文化にも

【天皇の島から 戦後70年・序章(5)後半】

沖縄への深い思い、琉歌に詠まれ ご共感、歴史や文化にも

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沖縄を初訪問し「ひめゆりの塔」前で源ゆき子さん(右)の説明を受けられる皇太子、同妃時代の天皇、皇后両陛下。この直後に過激派が火炎瓶を投げ付けた=昭和50年7月17日

 

 昭和天皇にとって、戦後の沖縄は未踏の地だった。

昭和62年秋の国体開会式に臨席が決まり、86歳となる同4月の誕生日会見で「戦没者の霊を慰め、永年県民が味わってきた苦労をねぎらいたい」との思いを語ったが、同9月に体調が悪化したため中止となった。

結局、名代として皇太子だった天皇陛下が皇后さまとともに訪問し、平和祈念堂(糸満市)で昭和天皇の言葉を代読されている。

「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」

63年の年頭に発表された御製(お歌)に昭和天皇の無念が込められている。

《思はざる病となりぬ沖縄を たづねて果さむつとめありしを》

陛下の沖縄への強いこだわりは、悲願を果たせなかった父の遺志を、引き継ごうとされるお気持ちも込められているのだろうか。

 

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◇   ◇

広島、長崎、沖縄、東京・下町の戦跡地を巡る、いわゆる「慰霊の旅」を果たされた平成7年に詠まれた陛下のお歌がある。

《沖縄のいくさに失せし人の名を あまねく刻み碑は並み立てり》

陛下をはじめ皇族方のお歌の指導・相談役を長年務めた岡野弘彦さん(90)は「慰霊碑が建つまでの長い歴史に思いを寄せられた歌。

陛下のお歌には、沖縄の人への深い共感がある。

文学的表現を超えて意味を持つ」と話す。

思いの共有は歴史や文化にも向けられ、昭和40年代から沖縄学の第一人者だった外間(ほかま)守善(しゅぜん)さん(平成24年に死去)の進講を受け続けられた。

会見でも度々、国民に向けて沖縄の歴史や文化を理解してほしいと訴えられている。

昭和50年の沖縄初訪問の直後、外間さんを呼び、お歌を示して「これで琉歌になっていますか」と尋ねられたことがあった。

《花よおしやげゆん人知らぬ魂 戦ないらぬ世よ肝に願て》(花をささげましょう 人知れず亡くなっていった多くの人々の魂に対して 戦争のない世を心から願って)

沖縄伝統の琉歌は、和歌と異なる「八・八・八・六」調。

素人が簡単に詠めるものではない。

外間さんが驚くと、陛下は、16~17世紀の琉歌集「おもろそうし」から琉球国王の歌を写し取り、学んだことを打ち明けられたという。

 

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◇   ◇

陛下は昨年6月、また一つ、沖縄で長年の慰霊の思いをかなえられた。

皇后さまとともに対馬丸記念館(那覇市)を訪れ、生存者や遺族と懇談し、慰霊碑「小桜の塔」に供花された。

陛下は「やっぱり(歴史書などを)読んでいては分からないですね」と感想を述べられた。

対馬丸は昭和19年8月22日、沖縄から長崎へ疎開する途中で米潜水艦の魚雷攻撃で撃沈。

学童約780人を含む約1500人が犠牲になった。両陛下と同世代の学童も多く、「戦争を身近にお感じになった出来事の一つ」(側近)として心を寄せられてきた。

ご訪問は、生存者や遺族にとっても悲願だった。

生存者の一人で記念館を運営する対馬丸記念会理事長、高良政勝さん(74)は、両陛下のご訪問を半ばあきらめていたという。

「3年前に車で5分のところまで来られたのに、訪問していただけなかった。

両陛下はご高齢であり、もう沖縄ご訪問は最後だと思っていた。

今回沈没から70年の節目にお出でになり、胸のつかえが少し取れた」

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