【天皇の島から 戦後70年・序章(3)後半】 「死ぬのは日本兵だけで十分」
「死ぬのは日本兵だけで十分」
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アンガウル島のアンガウル神社。道路から一歩入ったジャングルのなかにひっそりと佇んでいた。
昭和58年に、先の戦争で命を落とした人たちの鎮魂のために建立されたという=パラオ共和国・アンガウル島(松本健吾撮影)
日本政府がパラオ諸島の経済活性化を精力的に進めたのは、アンガウル島も例外ではなかった。
アンガウル港には燐鉱石の積み込み桟橋や灯台を設置したほか、東北港や東港にも桟橋を造り、船の往来があった。
港地域は、サイパン村とも称され、燐鉱石工場や交番、郵便局、アンガウル医院、国民学校、公学校などが集中したという。
ヨリコ・ルイスさん(89)は昨年5月、アンガウルからコロール島に移り住んだ。
アンガウルの飛行場と波止場に近い集落には、「ヤマダ商店」「マルサン商店」、沖縄人が経営する「ナカヤマ商店」があり、イワシなど日本の食材を売っていたという。
「大きい病院もあり、内科と外科と産婦人科があった。
お医者さんは『カタギリ先生』といった」。
ヨリコさんは、公学校で1年から3年まで日本語を学び、コロールの補習科で2年間勉強した。
同級生は90人いた。
日本人の「フギ」「ヨシノ」という男性の先生が2人いた。
ヨリコさんは70数年前を懐かしむように話す。記憶は鮮明だ。
「公学校では、日本語の読み方、書き方、算術、理科、地理を学んだ。
コロールの補習科では、イズチ校長、ヨシノ先生、フクオカ先生、ハットリ先生に教えてもらった。
卒業後は、燐鉱石会社で電話交換手の仕事をしていたら、戦争が始まった」
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日本軍がアンガウルやペリリューなどパラオ諸島に軍事基地を建設、駐留するようになったのは、1933年(昭和8年)に国際連盟を脱退して、36年(同11年)に軍備制限条約を破棄してからのことだ。
ヨリコさんによると、アンガウルの守備部隊は島民の家を借りて住んでいたといい、「シバザキ大尉やヤマグチ軍曹はうちの近くに住んでいた。
日本の兵隊さんは優しくて、一緒に歌を歌ったこともある。
タピオカを作って慰問に行ったことを覚えている」。
戦争中は島北部の鍾乳洞に隠れていた。
「100人以上のアンガウル人がいた。米軍は『出てきなさい』と盛んにアナウンスをしていた。
ある日本人が『逃げなさい』と勧めてくれたので、10月8日午前10時頃、出て行った」
アンガウルでの戦闘でも島民に死傷者は出たという記録はない。
ペリリューのように島民全員に対する組織的な疎開措置は取られなかったが、守備部隊は玉砕を前に、島民に投降を勧めたといわれる。
「死ぬのは日本兵だけで十分。島民を道連れにすることはできない」と、投降させた将兵もいたといわれる。
「アンガウルは戦争に巻き込まれた。でも、日本兵に対して悪い印象はない。
委任統治時代を通して島が栄え、日本語も覚えた。
戦争では、兵隊さんたちは玉砕したが、島民には投降を勧め、守ってくれた」
戦後、崩壊物処理を終えた日本軍がパラオ地区を引き揚げる際、多くのパラオ人が、日本の統治に感謝し、涙で見送ったという。
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