【天皇の島から 戦後70年・序章(1)後半】時を超え眠り続ける「誇り」 集団疎開させ、島民を守った日本兵 NO.1

【天皇の島から 戦後70年・序章(1)後半】
  時を超え眠り続ける「誇り」 集団疎開させ、島民を守った日本兵 NO.1

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ペリリュー島に残る、旧日本軍が使用していた隣のゲドブス島との間に架けられていた桟橋跡。夕暮れに橋脚のシルエットが浮かび上がった=12月12日、パラオ共和国・ペリリュー島(松本健吾撮影)

 ペリリュー島は「忘れられた島」とも呼ばれてきた。

多大な損害を受けた米軍が口をつぐみ、日本側も生還者が少なく、証言に限りがあったからだ。

だが、島民たちは、70年前に起きたことを忘れてはいなかった。

平成21年から25年まで駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)は言う。

「日本軍は、ペリリューの島民を全員、疎開させることで保護してくれた。

だから島民に死傷者は出なかった。日本軍への感謝は何年たっても忘れない」

「残留要望を認めず」

昭和18年6月現在でペリリューには899人の島民が住んでいた。

島民によると、日本軍と一緒に戦う決意をしていた島民もいたという。

だが、守備部隊はそれを認めず、非戦闘員の島民を戦闘に巻き込まないため、19年3月から8月にかけて、全員をパラオ本島などに疎開させた。

当時9歳だったアマレイ・ニルゲサンさん(79)は、夜間を利用して両親らとバベルダオブ島に疎開したといい、こう記憶をたどった。

「日本の兵隊がダイハツ(上陸艇)で連れて行ってくれた。

バベルダオブに着いた後も、憲兵が2日かけてジャングルの中をエスコートしてくれた。

なぜ自分たちの島から避難しないといけないのか分からなかった。

2年半ほどして島に戻り、草木がなく石だけの島を見て、もし、残っていたら死んでいたと思った。

家族で日本軍に感謝した」

 

【天皇の島から 戦後70年・序章(1)後半】時を超え眠り続ける「誇り」 集団疎開させ、島民を守った日本兵 

ペリリュー島にある戦没者慰霊碑「みたま」=12月10日、パラオ共和国・ペリリュー島(松本健吾撮影)

 

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〈ある島民が一緒に戦いたいと申し出ると、守備部隊の中川州男(くにお)隊長に「帝国軍人が貴様らと一緒に戦えるか」と拒否された。

日本人は仲間だと思っていた島民は、裏切られたと思い、悔し涙を流した。

しかし、船が島を離れる瞬間、日本兵が全員、浜に走り出て、一緒に歌った歌を歌いながら手を振って島民を見送った。

その瞬間、この島民は、あの言葉は島民を救うためのものだった-と悟った〉

逸話の真偽は分からない。

だが、ニルゲサンさんは「自分は見ていないので分からないが、両親からそんな話を聞いたことがある」といい、ウエキさんも「逸話は今でも語り継がれている」と話す。

生還者の永井敬司さん(93)がいう「日本人の誇り」は、島民疎開という形でも発揮されたのかもしれない。

「島が兵士のお墓」

1947(昭和22)年8月15日、住民は島に戻る。

島民が日本兵の被害状況を知るのは、昭和40年代に入ってからだ。

日本人を父親に持ち、クルールクルベッド集落で民宿を経営するマユミ・シノズカさん(77)は「日本の兵隊さんが何人亡くなったかを知ったのは、日本から慰霊団が来るようになってから」という。

シノズカさんはこの頃から、弟のウィリー・ウィラードさん(53)らと50年近くにわたり、慰霊団の食事の世話や島の中央部に立つ日本兵の墓地「みたま」の清掃などを続けている。

遺骨収容に参加したこともある。

 

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 シノズカさんは言う。

「ペリリューそのものが日本兵のお墓。

ご遺族に代わり、遠く離れた島に眠っている日本兵の冥福を祈る気持ちです。

島に眠る日本兵は私たちが守ります」

アントニア・ウエンティさん(85)も遺骨収容に関わった一人だ。

戦後、ペリリューに移り住んだ彼女は島民とジャングルに入り、遺骨収容を始めたという。

ある軍医の遺骨については自宅に持ち帰って供養した。

軍医の妻には「だんな様と一緒に住んでいるから安心して下さい」と手紙を書いたという。

ウエンティさんは「緑の島のお墓」という日本語の歌を作っている。

〈遠い故郷から はるばると/お墓を参りに ありがとう/みどりのお墓の お守りは/ペ島にまかせよ/いつまでも〉

〈海の中にも 山の中/ジャングルの中にも 土の中/英霊よ よろこべ 安らかに/一緒に暮らそよ とこしえに〉

〈ペ島の願いは 唯1つ/日本とペリリューは 親善の友/かよわい力 よく合わせ/知らせておくれよ 祖国まで〉〈伝えておくれよ 祖国まで/父母兄弟 妻や子に/僕らはみどりの 島暮らし/涙をおさえて さようなら/涙をおさえて さようなら〉

「遺骨収容し慰霊」

「大山」と呼ばれる山の中腹にペリリュー神社が鎮座する。

昭和57年、島民が見守る中、再建された。

由来記によると、祭神は天照大神と戦死した日本軍守備部隊の一万余人の英霊。

「護国の英霊に対し、心からなる感謝と慰霊鎮魂の誠を捧げましょう」とあり、島民が草むしりや掃除を続けているという。

 

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